[コメント] レスラー(2008/米=仏)
映画を見終った人むけのレビューです。
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数ヶ月前に試写で見て、やっぱガイジンは解ってねーな、プロレスは人の死に場所じゃないんだよ。と思っていたら日本公開初日に三沢が死んだ。用意しておいたコメントを、書き直さなければならなくなった。
私がこの映画に対して言いたかったことは以下のようなことだ。
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年老いたかつてのヒーローが命を賭けてリングに上がる姿は確かに胸を打つものがある。だけど、私たちが子どものころから親しんできたプロレスは、死の匂いなんて一切ない、健全な見世物だったはずだ。
「ロープに投げられた人が素直に戻ってくるなんて、ちゃんちゃら可笑しい」「いい大人がトラの覆面をかぶってカッコつけてる。変だ」小学生だって、それくらいのことは言えた。だけど私たちはその姿を楽しんだ。古舘伊知郎の大仰な言い回しに乗っかって、手に汗を握った。ブレーンバスターやフライングボディアタックが“受け手”の協力なしにあり得ない技であることを理解したうえで、私たちは熱狂したんだ。プロレスとは、そうしたレスラー同士の、そしてレスラーと観客との信頼関係によって成り立つショーであったはずで、この作品のなかでも、そうしたプロレスの舞台裏を描こうとする意図は感じられた。
だからこそ、プロレスのリングに人の生死を持ち込むのは反則だろうと思う。レスラーが「リングの上で死ぬかもしれない」という状態のまま試合に出場することは、対戦相手や、プロレスを見に来る観客や、テレビの前のお子様たちに対する裏切りだろうと思う。ショーを完遂できる者だけがリングに上がる資格があるんだと思う。
プロレスは芝居の殺陣に例えられる。だが、殺陣は斬らない。プロレスは実際にヒジをぶつけるし、蹴るし、投げる。投げられる側は、それをわかった上で、投げられることになる。そこにあるレスラー同士の信頼関係とは、投げられる側が「死なないこと」を約束できるということだ。投げたら死ぬかもしれない人間を、誰が投げられるというのか。
だから、プロレスラーはリングに生死を賭けちゃいけないんだ。「技を受けても死なない」と約束できないレスラーは、リングに上がっちゃダメなんだ。物語のなかだとしても、プロレスを扱う限り、それはダメなんだ。
私たちが見ていたプロレスと、この作品の作り手にとってのプロレスが違うものだったと言えばそれまでだけれど、少なくとも私と同年代の男子にとってのプロレスとは、こうじゃなかったはずだ。
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──だって、いまの三沢を見なよ。あんなにボロボロだけど、あいつは絶対リングの上でなんか死なないよ。それがプロレスラーだよ。プロレスラーって、そういうもんだよ。
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そう言いたかった。
今朝テレビで、バックドロップを受けて倒れた三沢が救命措置を受けている姿を見た。三沢はピクリとも動かなかった。あれが三沢にとって「あってはならない風景」だったと思いたい。ノアの社長だった三沢は、会社の行く末に命を賭けていたかもしれない。だけど「このリングで死んでもいい」なんて気持ちは、一切、まったく、絶対に、微塵もなかったはずだと、そう信じたい。プロレスがレスラーと観客との信頼関係のうえに成り立つショーである限り、その幕を下ろす権利は、レスラーだけに与えられたものじゃないはずだから。観客は最後に拍手を贈るために、ショーに足を運ぶんだから。
三沢さん、お疲れ様でした。どうか安らかに眠ってください。
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