[コメント] 告白(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
子供が、大人が、生徒が、教師が、子が、親が、誰もが愚かなまでに相手を見誤り、読み誤ったあげく、不幸に突き落とされる。
ある者の“こう見える”姿が、彼の告白によって“実はこうだった”とひっくり返される。
映像は、ある事象をまず問答無用にそう見えるように提示しておきながら、それを告白=ナレーションといういかにも単純な手法によって「違うよ、バカ、なんもわかってねえな、いいか、本当はこうなんだよ」としたり顔でひっくり返す。
中島哲也は、この安っぽいインチキを驚異的な執拗さで繰り返すことによって、ディスコミュニケーションの時代の青写真を捏造しようとした。
その結果は、これはもう嘘から出た真と言っていいぐらいの臨場感をもって迫ってくるのだから立派だと思った。
自分も見ていて大きく気になったのは、少年の動機が理解できるものであり、端的に言って愛だったことだ。“愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!”って、おまえは聖帝様か。書いておられる方もいるとおり、現実の彼らのそれは、そんなドラマティックなものとは遠いような、理解しがたいものであるようなイメージがある。というより理解したもくないというか、理解すべきものと認めたくもないというか、言っちゃあなんだが汚物として消毒してしまいたいものである。
と、考えてしまう俺もまたディスコミュニケーションに陥って開き直りかねない愚か者のひとりなのであろう。
この映画はフィクションであることに開き直り、少年Aにも守るべきものを持たせた。それによって復讐の物語は、フィクションならではの圧倒的な力を持つにいたった。クライマックスの疾走は尋常ではないし、先生の復讐は持ちえてはいけないのかもしれないカタルシスをも持ってしまっている。
ひとつ面白いことには、暴力を描く物語がときにそうであるように、この物語にあっても敵同士が最後の戦いにあって誰よりも深く相手を理解しあう点だ。
先生は生徒への憎しみゆえに最後には誰よりも深く彼を理解していた。生徒は誰も知らなかった先生の憎しみの深さを最後の最後で思い知った。ここには血にまみれたコミュニケーションがあるのだ。
あるいは、孤独とは理解者がいないことであり、理解しようとしてくれる者の大いなる不在が怪物を造る――その一点につき、この映画は真実を語っているのだろうと思う。
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