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[コメント] 街の灯(1931/米)

子どもの頃、親と観て泣いた映画を再度親と観る。自分の嗜好の形成について&映画のラストについて(02/08/17)
秦野さくら

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







親が好きな映画。

小学生の頃、私は、親が観ている傍らでなんとなくこの映画を観ていた。 同じ映画を観ながら、親と一緒に笑い泣いた。

それから、私にもそれなりの反抗期があり、親が好きな映画を観ることに、その映画が好きだという自分を肯定することに、 気恥ずかしさを感じたこともあった。そんな時期もとうに過ぎ、今再び親と一緒にこの映画を観る。当時と同じように一緒に大笑いして泣いた。

やはり自分の嗜好は親に相当影響されているのだろうと思うと、なんだか悔しい。そうは言いながらも、今はそれが少し嬉しいと思う。 世代を超えても年代を超えてもなお、この映画は色褪せていなかった。

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ラストについて。

昔は疑いなくハッピーエンドとして捉えていたが、今観ると微妙だ。ミディアムアップされた少女の顔からは、その後の展開は 予測できない。おそらくチャップリンは判断を我々に託しているであろう。「少女は、憧れの男が浮浪者であると判明しても、 同様に愛しつづけることができるのか」という問いの答えを。

しかし、ジジェクの解釈によると、この映画は反対側の問いに対する答えも同時に保留されているという。 つまり、「浮浪者は、健康を回復した少女を同様に愛しつづけることができるのか」という問いに対する答えである。浮浪者が少女に同情したのは、彼女が 盲目で貧乏だったからだ。だが、今や、彼女はそうした負の条件を克服してしまった。 もし一緒になれば、養われるのは浮浪者の方である。それでも彼は、彼女を愛せるだろうか、と。 (大澤真幸「文明の内なる衝突」より抜粋)

私は、この解釈に不本意ながらも同意してしまった。 おそらくジェシクは、弱者がその弱者性を返上したときに、なお「愛」は持続するのか、という点について追及しているのだろうと思う。 そして、その際、「弱者」として定義されている条件とは、(大澤の言葉を借りれば)「盲目」と「貧乏」であろう。しかし、 私は、少なくとも私がこの映画のハッピーエンドを確信できない理由は、「弱者」としてさらに「女性」という 条件が(自分のなかに)無意識のうちに刷り込まれているような気がしてならない。

そういう先入観の有無を確かめるために、設定などを変えて自己確認をしてみる。男女の設定を入れ替えて考えてみると、ハッピーエンド は私の中で確信的になる。シンデレラのもとへ王子様ご到着の図である。

・・・自分の中で忌み嫌っている概念に囚われる自分を発見してしまう悲しさ。(おそらくこの「忌み嫌う」思考までも親から影響を受けていると自覚)・・でも、この概念が通念であることを、私は経験上、いやというほど良く知っている。

(評価:★5)

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