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[コメント] ラルジャン(1983/スイス=仏)

 失ったものを取り戻すには、あこがれだけじゃダメなのだ。
にくじゃが

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 どのシーン、どのシーンもビッチビチに詰まっていて、そこにあるはずのことにムクムクと妄想が沸く。楽しいなあ。

 イヴォンが社会との関連を失っていく前半、それまでの社会を何の疑問もなく受け入れていたかれに、突然「その金は使えない」ときた。紙幣、それを使った社会との交わり。お金の受け渡し、人との交流。その後の彼の声は社会には受け入れてもらえない。罰だけが与えられる。交流とは言えない、一方通行。社会との交流がなくなった人間はどうなってしまうのか。

 子供はいなくなり、奥さんは去り、手紙は開けられ、秘密は漏れる。守りたかった自分の尊厳すらない世界。彼の何もかもがむき出しになる。動物のような扱い。初めはまだ普通の人間のように泣いていた彼が、はっきり変わってしまったのはあの自殺未遂のシーンだろうと思う。彼の肉体は死ななかったが、彼の理性はあの時死んだ。理性のタガがはずれた彼が、自分から何もかも奪っていった社会に自ら行動を起こせる唯一のものと踏んだのが暴力だったのかもしれない。反撃ってわけだ。

「なぜ人を殺す?」「楽しいから」金が目的じゃない、出会った人を反射的に、失ったもの、社会との交流を求めて、人を殺す。でも社会との交流を求めていながら人を殺すんじゃ、そいつは自己破壊だ。彼が求める分だけ、彼と周りは断ち切られてゆく。でも今の彼は何も考えない。考えられない。想像力が欠如した(だって理性ないもん)、自分の感覚や本能だけを信じている彼は、動物。考えるより脊髄反射だ。

 あの老婦人との交流がまぶしいのはそこまでの経緯があったからだ。自分から何もかも奪っていった社会。何か与えて欲しい、それなのに無視し続ける社会。言葉はもう通じない、だから暴れた。そんな彼をあの婦人は赤ちゃんをあやすように優しくしてくれた。暴力ではないこと、人に優しく。自分ではない他の誰かへの想像力がなけりゃできませんよ。ほんの一瞬、たった一人だけれど、自分以外の誰かとの破壊的じゃない交流。彼女の優しさを受けて、彼はここで人間としてもう一度生まれることが出来た。この瞬間は奇跡だと思った。

 奇跡のすごいところは、それが影響を与え続けることだと思う。一家惨殺、その告白。動物から人間への過渡期にある、不安定な状態の彼がなんか考えてるよ。想像力によって何かを考えること。刑務所出てから初めて想像力を使って交流した彼女。彼女を殺してしまったからこそ、彼女に対する想像力が働き、良心の問題が生まれてきたのだから。彼が死刑になったとき、何かを考える一人の人間として死ぬのだ。

 ところでALPACA様があらすじにておっしゃっている問題、現代に置き換えた意味、私はカミサマがいない現代では、その代わりになるようなものがここでは「社会」になったと思うのです。絶対的な知のカミサマは消えて、人間の繰り出す情報が溢れまくる現代で、その波に流される人たち、彼らが求めているのがその波から手をさしのべて救ってくれる誰か、生身の人間との関わりかもしれない。求められているのは絶対的なカミサマより地域密着型の個人個人の交流よ、とそんな風に思ったので、ここではカミサマ無視して長々と書いてみました。ほんとに長いよ。

(評価:★5)

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