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[コメント] お引越し(1993/日)

ひとりっ子の映画。田畑智子の顔と声と、駆けていく体の映画。

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







これは子供の映画だ。本来的に孤独な存在として世界に投げ出されている子供が、その自覚を通して人生に向き合う映画だ。物語ではなく、映画だ。子供が変わっていくその様を、如実に体現する演者の存在が感動的だ。これはその顔と声と、駆けていく体の為の映画なのだ。

映画に映し出されるのは今時の核家族親子。だが決して腑抜けているわけではない。あの親にしてこの子ありなのだと思わせる。「なんで生んだん?」と叫ぶ我が子に、何も言わず(言えず)に素手で硝子を打ち破る母。決して親に正当性があるわけではないが、安易に宥めすかしたりもしない。ふらつきながらも「甘えるな!」とばかりに硝子を破る。何にせよ「なんで生んだん?」なぞと言えるうちは、その子はまだ子供なのだ。誰でもこの世に生まれた限りは“ひとりっ子”のようなものだ。何の因果かそれを人生の早くに自覚させられてしまうことは、その子にとってはあるいは不仕合わせなことかもしれないが、それは生きていくならどの道避けられないことでもある。逆に言えば、むしろこの子は仕合わせなのだ。応えられるはずもない問いにごまかすような応えかたをしないだけでも、親は我が子に誠実に向き合っているとも言える。五指にあまる幸せな思い出を我が子に与えることも出来たのだから、親はそのつとめを果たしていたとも言えるかもしれない。信じられるものがあればこそ、子供は変わっていかなくてはならない自分を肯定することもできる。あの親であればこそ、この子も生れ育ってそこにいるのだ(*1)。

子供は、自分で自分にケリをつける為に独りきりでさ迷う。その中で行き巡る光景。子供の魂を野辺送りにする土着の火祭り。少女の産声を受けとめる朝の冷たい湖。在り来たりと言えばあまりに在り来たりなこれらの情景も、その瞬間を生きる田畑智子の瞳に映ることで清い美しさをみせる(*2)。山野の徘徊は子供時代の最期をふり切るための必然だ。何者の視線も介在しない無為の時にこそ、もっともふかい魂はある。観客は、けれどそれをみることはできない。それをみるのは漆場レンコであって、田畑智子だ。それでよいのだ。これは漆場レンコの、田畑智子の映画なんだから。観客はどうしたって自分の眼でモノを(映画を)みているのだし、漆場レンコ(田畑智子)もまた彼女の眼でモノをみている。当然のことのようだが、それを自覚したうえで、ひたすらそこに存在している顔を見つめることだけが、そこに存在しているであろう魂への倫理的な態度なのだと思う。この映画の漆場レンコ(田畑智子)の顔は、そんな倫理的な態度によってはじめて、魂を有したものとしてそこに存在できたのだ。ひとの顔が表情を見せるというのは、ふと気がつけば驚くべきことではないだろうか。

魂の夜から、人生の朝へ。子供の自分の小さな背中に、「おめでとうございます!」。抱き締めて、通り過ぎて、そして笑顔(*3)。

エンディングのタイトルバックに胸が詰まる。舞台で言えばカーテンコール。虚構の中で漆場レンコを演じ終えた田畑智子は、自分の未来へ向かって歩き始めるのだ。ふつうなら小恥ずかし過ぎるこんな演出も、この刹那の田畑智子になら、その前途に祝福あれと希いたくなる。こんな顔を見せてくれたことに、「有り難う」とすら思える。相米慎二監督の愛情を感じた(*4)。

1)ひとつ付けくわえれば、そこに父の影が薄いことも今時の核家族をよく映し出していると言えるかもしれない。女性が(母子ともに)変わっていこうとする時に、男は自分が変わりたいのか変わりたくないのかさえも分からずに、遠巻きにそれを眺めやるだけなのだ。父はこの父なりに何とか娘と関係を持とうとするが、けれど自分の立場をはっきりさせることは遂に出来ない。お好み焼き屋の帰り、「もう終わりなん?」と言うレンコの声に応えられない父。だがその背中に背負う娘の小さな体の、か細い声の感触の愛おしさはどうしようもなく迫ってくる。相米流の「人と人との関係を見詰める」というのは、こういう感触を見詰めることなのだ。

2)京都、琵琶湖畔の情景。ハリウッドで仕事をしていた栗田豊通のキャメラは、在り来たりな郷愁や土着性に程好い距離を取りながら、夏の京都を駆けていく11歳の少女の体をフィルム上に美しく運動させている。そして独りさ迷う少女が見つめる火祭りの炎は、これは逆に目一杯郷愁を誘う美しさで映し出される。だが今度は肝心の少女は人の群れから拒まれ、独り寂しく座り込み炎を見つめるばかり。そこには情景との距離がある。

3)精神的な危機を迎えた女性が土着性や自然の情景の中で自己回復するという主題は、『Love Letter』や『幻の光』といった邦画にもみられるように思うが、あれらの映画では土着性や自然は遠景に都合よく描き出されるのみで距離が曖昧で、それと向き合うヒロインの叫びにも実存的な虚無に向き合うような強度はみえなかった。あれらの映画とこの映画に異なるものがあったとすれば、それはズバリ言って田畑智子の身体(漆場レンコの身体)の存在ではなかったろうか。彼女の11歳の孤独な身体があればこそ、この映画は自己回帰を曖昧に自然回帰と重ねあわせてしまうようなステレオタイプから、薄膜一枚で遁れていると言えまいか。

4)映画の撮影時に田畑を終始「ガキンチョ」呼ばわりしていた監督は、約一年後のキネマ旬報新人賞授与式の際にはじめて彼女を「田畑君」と呼んだのらしい。映画から一年経った田畑の顔はふっくらした“女の子”の顔になっていた。

ひとりっ子の映画。田畑智子の顔と声と、駆けていく体の映画。映画のなかでこの子を生かして育てたのは、監督をはじめまわりの大人達なのだと思うと、尚更に感慨がある。自分にとっては、いろんなこと(人が何者かを演じるということ、人が映画をみているということ)をぐっと考えさせられた映画だった。

(評価:★5)

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