[コメント] 時計じかけのオレンジ(1971/英)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
1 少年は手下を連れ、自分の意志で自分の欲望を満たしていた。
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A 少年は刑務所に収容される。
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2 少年は欲望を抑えこんだように見せかけ、更正したフリをした。
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B 少年は矯正治療を受ける。
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3 少年は欲望を抱くと勝手に吐き気をもよおし、強引にあきらめさせられるような体質になった。
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C 少年は命を絶とうとするが、未遂に終わり再び病院に戻る。
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4 少年は自分からすすんで口を開け、政治家に肉を食べさせてもらった。
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上に挙げたAからCまでは少年に加えられた治療(矯正)を、1から4までは少年の行動を表している。4の段階まで到達したとき、一見少年は1の頃に戻ったような印象を受ける(「完璧に治ったね」)。確かに、再び欲望の充足が可能になったという点では「治った」のかもしれない。しかしここで少年の主体性に注目してみたい。1から4に進むにつれ、少年は自分以外の何かへの隷属の度を深めている。4の状況をよくよく考えると、彼はあくまで食べさせてもらっているのであって自分で肉を食べているわけではない。彼ができることは肉がもらえるように、口をぱっくり開けて待つだけである。そのような他者依存的な行為を1の頃の彼がおこなっただろうか。3の頃はそれでも心の奥底に自分の意志が秘められていたはずで、それが抑えこまれることで苦痛を感じていた。しかし、4の時点では自分の意志で動いているという仮の意識をもたされているうえで、その実政治家にいいように操られている。主体性を無理やり抑えこまれるよりも、何の疑問も持たずに自分からすすんで操られているほうが、よりいっそう大きなものに管理されているということが言えるのではないか。かくして時計じかけのオレンジは誕生した。表面上はオレンジであることに変わりはない(どちらも欲望を満たすことができることに変わりはない)、しかし中身に果肉がつまっているオレンジと、時計じかけのオレンジとでは、その内実は決定的に異なる。本作は、少年の意識が造りかえられていく話であったという点では一貫性を保っている。操られることに長けた少年は、おそらくは操る側(それはもっと大きな対象に操られていることと同義)である優秀な政治家に転身するのではないだろうか。本作を通して、何かの誕生を観る側は垣間見た。
ただし、キューブリックはその構図を示しただけであり、他の彼の作品同様、そこから彼の視点をうかがい知ることはできない。そこがいつも不満なのだが、主張のようなものが出てこないという点では説教くさい作品に陥らずにすんでいるのだろう。確かに本作での暴力はそういうふうに想像力をはたらかせないと痛みを感じないソフトタッチなものであり、セットは美しく、映像から批判的視点を感じることは乏しく、観ている側もただただ魅せられてしまう。それは悪いことではない。そして、性器の置物や裸の写真に跳びつく蛇など悪趣味で皮肉なブラック・ユーモア(男性的視点だと批判は可能なのだが、そのあたりは開き直っているように見える)にもニヤリとさせられる。中身は大きく異なるものの、テイストは『トレインスポッティング』や『バッファロー'66』などの具体名を挙げるまでもなく多くの作品に影響を与えた。近未来の世界観というと、私にはどうしても手塚治虫か本作が真っ先に思い浮かぶ。快作である。
*ただ川のシーンはなぜセットにしなかったのだろうか。あそこだけ妙に同時代的で、近未来的世界観からはかけ離れている。
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