[コメント] ライフ・イズ・ビューティフル(1997/伊)
観たのは少し前で、やや記憶は曖昧なのですが。
前半では一般庶民の明るい愛に満ちた生活が、笑いとファンタジーをこめて描かれている、というべきか?楽しい。でも映像全体としてテーマはたぶんさほどない。後半、状況は一転してナチスの収容所が舞台。しかし収容所の過酷さを強調することはない。中心は、あくまで子供にたいして嘘を突き通す父親の姿だ。過酷な現実のなか家族につくす父親の姿が、描かれている。
おそらくコメディなら、前半だけで十分だったかもしれない。大げさな後半は要らない。収容所を描くのなら、前半はあんなに要らない。だがどちらにもテーマがないのは確かである。別のところにテーマがある。
前半の笑いと後半の笑いは、共通のものでない。後半も主人公は一見突拍子もないことをするし、動きはコメディだ、だが前半と同じ種類の笑いではない。後半では行為の意味づけがなされるので、こちらは笑えない。共通のテーマとして挙げられるとすれば、希望的ファンタジーの強調であろう。だがそれにしても、この手のファンタジーはこの明るく饒舌な主人公の人間的魅力が生み出すものではあっても、それ以上のものでないのではないか、とも思う。
収容所を舞台にしたのは何故だろう?そもそも「収容所」の現実を問題として扱いたかったのだろうか?どうもそう思えない。あまりにも設定が突飛すぎて、おとぎ話的でありすぎる。たぶん主人公の行為によって家族愛とか、想像力の素晴らしさを強調する舞台として収容所を選んだのであろう。でも家族愛とか希望的ファンタジーの重要性を表現すると簡単にいっても、それを表現するには、この映画の素材では足りないであろう。あまりにも紋切り型なのだ。
ベリーニについて好意的にみるなら、前半では、彼自身の得意の才覚をみせてお客さんに喜んでもらい、後半で自分の主張したいところを示したかったのだと思う。嘘がいいか悪いか、こんなことは僕にはどうでもいい。嘘を通して家族愛を強調しているのだから、嘘は「装置」に過ぎぬ。装置は、装置を通してこそ表現できぬ何かがしめされなければならないのだ。それは家族の絆とファンタジーだろう、だが…この映画の場合、父親の立場から一方的に家族の絆を理解してはいないだろうか?そこがどうも気にかかる。父親と家族以外の人間はこの映画では存在していないに等しい。収容所にもリアリティがない。また母親も献身的ではあるが、父親の行動についていくだけの母親である。確かに子供は可愛いし、両親の愛情も伝わる、これが確かに感動を呼ぶ。だがこの二人の家族もひっきりなしにしゃべる父親のエゴに振り回されているだけでないか、という印象が残る。たぶんこの映画をつくるときの発想は、主人公の父親を如何に見せるか、というものなのであろう。父親を見せることで家族愛を示そう、と。だがそれが映画として見せられるときに、どこかひずみが生じているように思われる。それは上に挙げた「紋切り型という印象」とどこかで関係があるのである。
そんなこというな、という声が聞こえそうだ。笑うところを笑い、泣けるところを泣け、と。もちろんそんなことは僕もできる。だがこの映画について何か書き残すのなら、以上のことは指摘しておきたい。逆説的だが、これほど一人相撲な映画が、意外なほど最後まで面白くみられることに、この作品の質の高さを感じてもいる。すなおにコメディとしてみると、この映画は一番いいのかもしれない。お笑いは一人相撲でかまわないのだから。この映画を映画たらしめているのは、コメディであるからだと思う。それが監督の意図したところかどうか、というと多分違うところが、一番の問題なのだ。
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