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[コメント] 妖星ゴラス(1962/日)

科学的リアリズム担当=円谷英二、日常的リアリズム=本多猪四郎。その両者が合致した和製SF映画の傑作。<追記>怪獣マグマの存在意義について→
荒馬大介

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 ゴラスの引力圏外から逃れる為には、地球は最低でも40万キロ移動させねばならない。その為に南極には、33×33計1089本、面積にして合計600平方キロ、地上500メートルにも及ぶ巨大なジェットエンジンを設置する。これを動かす為に必要なエネルギーは660億メガトンだが、これは海水に含まれる重水素及び三重水素を使用すれば無尽蔵である。加速度は1.10×10−6乗G、これは自由落下よりも遥かに小さい加速度なので、発射時の衝撃も少なくて済む……。

 この理論はどうだろう?「地球を動かす」という一大プロジェクトを実施する為には、これを実現する為の科学力と計算が必要なのである。これを実現可能かどうかを問うのは野暮で、むしろそれが1962年当時、

「ひょっとしたら出来るのではないか?技術が進めばこんなことも出来るのではないか?」

 という希望的観測を持った憶測を込めて、当時あった科学理論を総動員して本作の科学的設定が作られたと思われる。すでにこの当時、重水素をエネルギーとして使用する原理か理論が唄われていたのだろう。

 それだけの「未来の」科学を描いてなぜ正月を祝ったりするのか、という突っ込みが入ったりするが、科学の未来を描くことと日常の描写をいっしょくたにしてはならない。無論未来感を出す為に、ドラマ部分にしても全てにおいて今だ古あせないセットデザインをしている映画はある(『2001年宇宙の旅』にはどこにもそんな突っ込みをいれる隙が見当たらない)。だがそれはそれで演出手法の違いに過ぎない。キューブリックはそうしたが本多猪四郎は違う。あえて当時(いうなれば、現代)と変わらぬ日常描写に徹したのだ。

 だからこそ、クリスマスはどんちゃん騒ぎをしたり、宇宙船が遭難しても現政権の命取りになるんじゃないかと諸大臣が心配したりするのだ。「隕石が地球に接近!」と言われても「マスコミは騒ぐのが商売だし、学者の理屈からすればそうなるんでしょうけど、理屈どうりになっちゃ困りますからね」と答えるタクシーの運転手もいる。「君達が宇宙のどこかへ生き残って、俺達がゴラスとぶつかっておだぶつかもしれねえな、ははは」と妬みを交えて言う酒飲みがいる。どうだろうか、至極現実的ではなかろうか?本作に関して本多はこう言っている。

「大衆というのは、そういう大問題とは直接的に関わり合おうとしたって関わり会えない立場の人たち。しかもそういう人たちが一番多い。そして権力を握っている連中には、自分たちだけが生きる方法が無いわけでもないんですよね。(中略)そういう権力なりエゴなりをささえているのは普段からの大衆のエネルギーってわけでしょう。……だから、大衆ってのは見逃すわけにはいかない。」

 だからこそ、本多はそこに注目した。科学のリアリズムは一目置く存在だった円谷に一任し、大衆のリアリズムを描くことに徹したのだ。それだけの要素を孕んだ映画を、90分足らずでまとめ上げてしまった本多監督は見事である。

 ……さて、本作の評価の肝となっているものに「怪獣マグマ」の存在がある。中盤から後半に入りかけたところで南極基地にダメージを与える巨大生物であり、こいつのおかげで遅れがどうやっても2日分は出てしまうため、まさにギリギリの緊迫感を生むための要素……といいたいところだが、やはりガチガチのSFに怪獣が出てくるということに違和感を感じる人も多く、それ以前にマグマ登場については何の付箋も貼られていないという点が、本作の最大の弱点となっている。

 脚本の木村武氏、そして監督の本多猪四郎は、この映画に怪獣を出すことには最後まで反対していた。だがやはりクライマックスの前にワンパンチを加えてサスペンスを出したいという、おそらくは製作サイドからの意向だと推測されるが、結局は怪獣を出すことになった。しかし決定稿の段階では、怪獣マグマはセイウチではなく恐竜のような生物であり、園田博士(志村喬)の「これは間違いなく爬虫類の血液だな」という台詞はその名残なのである。では、マグマを恐竜からセイウチ型にさせたのは誰かというと、実は本多なのだ。「南極という場所からすると、ああいう形の方がいいのではないか」という理由で。

 しかしこの段階では、マグマの存在はゴラスが来るまでの単なる“時間稼ぎ”にしかなっていなかった。本多は、ここである人物をマグマに関わらせる。志村喬だ。

 本作では、志村喬はどういう存在だったか。妖星ゴラス地球接近に伴う人々の顛末を脇で見守り続ける、という重要な役割を担っている。本作のヒロインの一人・白川由美の祖父役であり、上原謙の旧友でもある。父親を亡くした孫二人を慰め、時として旧友の心の拠り所となり、地球の行く末を巡って相対し始めてしまった二人の科学者を仲裁する。だが彼の設定は「生物学者」なのだ。 これを忘れてはならない。

 このシーンを思い出して欲しい。飛行機からレーザー光線をお見舞いし、ぐったりとなるマグマ。その生死を確認するために、池部良上原謙、そして志村喬の3人(今から思うと何とも贅沢な配役!全員主役級だ!)が近付く。だがマグマはまだ生きていた!その時、志村喬演ずる生物学者は、その姿をもっと確認したいと、脇の二人が止めるのも聴かずにさらに近づこうと必至にもがくのだ。この前に志村喬は「殺してしまうのは惜しいね、せめて骨だけでも持って帰りたい」と呟き、池部良にたしなめられている。

 この場面は、決定稿の段階ではマグマを攻撃する飛行機に乗っていたのは池部と上原だけだった。ところが本編では、そこに志村喬まで乗せたうえに、先に挙げたシーンまで撮影している。ここまでしたのは誰の意向でもない、本多の意思なのである。

 そう、マグマを出すことを不可避と判断した本多は、怪獣の出現を逆に利用し、志村喬がなぜこの映画に登場したかを明確にさせ、地球大移動の傍観者になっていた志村喬を、南極計画に携わせるという展開をこしらえたのだ。ストーリー上では、科学者の池部と上原、宇宙パイロットの久保は、“ゴラス”と重要な繋がりを持っている。そして、白川と水野の女性二人は、池部と久保の二人を通じてやはりゴラスと繋がっている。では志村喬はゴラスと繋がるかというと、“顛末を脇で見守り続ける”という役割からすれば、そうだとは言えない。ではストーリー上どこで何と繋がるかと問われれば、答えは一つしかないのだ。……これでも、マグマ出現を100%無駄だと言い切れるだろうか?

 地球が動く(かつ怪獣まで登場する)という一見馬鹿馬鹿しいとも思えるこの設定ならば、投げやりやヤケっぱち、または照れを感じるような作品になってもおかしくは無かった。だが本多はそうならなかった。大嘘をいかに説得力あるものにするか? この命題に対し、本多は「人間をどのように関わらせるか」に尽力した。だからこそ人間側の「日常的リアリズム」に注目したともいえる。そして、彼の本気度がそのまま、登場人物の本気度にも繋がっていると考えてもおかしくはない。

 そう考えると『アルマゲドン』は……と思ったが、長くなりすぎた。本作との比較は、また別の機会にするとしよう。

(評価:★5)

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