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[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)

神と廃墟と名前。宮崎監督の「信仰」観についての三題話。以下長文です→
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







冒頭、千尋親子3人を乗せた自動車が道を間違えて、トンネルにつながる妙な道に迷い込んでいく。トンネルの前にあった不思議な石の像に、両親は特に気にも留めなかったが、千尋だけは、一瞥して子供らしい敏感さで何か気味の悪さを感じている。私もこれが気になってしょうがない。この映画のテーマに直結する、大事なアイコンであると思う。

この石は、奈良県明日香村に現存する「猿石」に似ている。「猿石」は、にやりと笑った猿の様な顔をした石像で、既に「今昔物語」に記載されているところを見ると相当古いものであるようだ。「今昔物語」の時代以降は、長く失われていたが、元禄期に偶然に田圃から掘り出され、明治期に今ある場所に移されたという由来のある石像である。この石像が実はトンネルの前の石像と同様、両面の像である。笑い顔のにやけぐあいもずんぐり具合も実にそっくりである。たぶん、作品を作成するときに制作者はこの「猿石」を参考にしたと思われる。だとすれば、このアニメーションの世界の奥行きを測るものとして、この冒頭の石像はまことによいてがかりとなる。以下から本論。

「猿石」は現在では何のために制作され、そこに設置されたか意味不明となっているが、意味が明らかにならないものというのは、人間にとって実に大事なものなのである。千尋が石像にある畏怖を感じたのは、その石像の「意味」が分からなかったことが関係していると思う。

「意味」とは映像や言葉に付着する何ものかであるが、言葉(名前)や映像(形象)は鮮明なのに意味の不明なものに対して畏怖を感じると同時に郷愁を感じた経験を、皆さんお持ちではないか? おそらく、だれもが一度は経験があるだろう。そして、畏怖と郷愁を同時に感じるとき、人間は時代の今昔や洋の東西に関係なく、宗教の発生にかかわる原初的な感情を経験しているような気がする。

われわれはこのアニメーションによって、信仰が発生する場にたちあうことができる。胡散臭さも押し付けがましさも理屈っぽい教義もない純粋に生まれたての信仰。湯婆の存在も、奇妙な化け物の存在も素直に受け入れる心。

妙な八百万の神々が集まる。この神々には実体があり、どうやら、ちゃんと全員に名前があるようだ。(カオナシ・クサレガミなど)。いっぽう、ハクという重要なキャラクターがこの映画に出てくる。ハクと言う名前は、千尋が千と命名されたように、かつての自分の名前の一部を付けられているにすぎない。名前を一部しか名乗れないものについては、千と同様、神の扱いはされていない。ハク自身の口から「名前を忘れた物は湯婆に操られる」と千尋に説明されている。また、名前を全的に取り戻したので湯婆からの独立が果たせるとラストでハクは今後の展望を述べている。名前がいかに大事であるかがわかる。

名前を失うことは、一神教の世界と違い、多神教の世界においてはその神は存在そのものをなくすことに他ならない。名前さえあれば、とりあえず、その神は生き延びてゆく。ハクも名前さえ取り戻せば、マンション建設で水を奪われた川の神ではなくなるかもしれないが、神格を変えて、何か別の神になることが出来よう。そんな神様など、今の日本にたくさんいる。

たとえば、柿本人麻呂を祭る神社があるが、たいていの人はこの神を歌の神様と考えるだろうが、ある地域においては消防の神である。ヒトマロ→ヒトマル→火止まるからの連想である。また、かつては物部氏の氏神であった神ニギハヤヒのミコトは、物部氏滅びし(1400年前!)後もこの日本に居残りに居残り続け、今や、航空産業の守り神となっている。空港にはかならずあると言う話だ。これは、ニギハヤヒノミコトはアメノトリフネという乗り物に乗っていると古事記に書いてあるところからの牽強付会である。 この名前、ハクの本名に似ているでしょう。 多分、日本の神名と神格の関係(神格が変わっても神名は生き延び続ける)をすごく参考にしてハクを造型してあるのだ。

そして、神と人(この場合、千尋)が出会う場所が、テーマパーク跡地、つまり廃墟である。このこともすごく象徴的だ。廃墟とは神殿の言い換えにほかならないからだ。オリンピア神殿でもいい、メッカの神殿でもいい、どのような神域もかつて神が示現したあとのまつりの場所であろう。その意味ではどんなに人がいて、人がそこに暮らしていても、神々がかつてそこにいた場所でしかないという意味で神殿は廃墟なのだ。また、今や意味をうしなったものが山積しているに過ぎない場所であっても、誰かがそこに新たな「意味」付けさえ出来れば、それは宗教行為であり、廃墟は神殿となりうるのだ。

千尋は、このテーマパーク跡地で何か途方もないスケールで形しかないものに対する意味づけ経験を行った。それは、数日間にわたる経験であったが、同時に、新たな引越し先に向かう途中のほんの一瞬の間の経験であった。親が豚になる悲惨を経験し、竜の背中に乗った。千尋のやったことは、かつて名だたる信仰者の経験したこととほとんど同じだ。千尋は神の使いになれる。

名前あるいは形だけのものに意味を付与するプロセスが信仰だというメッセージをまさか現代の日本のアニメーションが発信してくれるとは思いもつかなかったが、そのことをとにかく理屈っぽくなく楽しく見せてくれた。イメージも実に豊穣。

そして、もっと大事なことがある。千尋が意味の不明なものを通じて、強烈な意味づけ経験を行ったのと同様、観客は「千と千尋の神隠し」という意味不明なものに対して強烈な意味づけ経験を行っていることなのだ。『もののけ姫』の欄にも書きましたが、宮崎作品の開かれた性質は、この作品でさらに確固たるものとなっている。

(評価:★5)

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