[コメント] KT(2002/日=韓国)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
[そして歴史は闇に葬られる・・・]
だったら伊藤和典脚本の方がよかったんじゃねーか?さにあらず。荒井晴彦である必要があるんだこれが。画面も音楽も「70年代」風なのだ。これはもう、「今」を描いても「70年代」になってしまう彼しかおるまい(笑)。
この古臭さは意図したものだと思う。『クレしん/大人帝国』は21世紀を目前に必然として70年代を描いた傑作だ。一方、『光の雨』は現代の若者が芝居として70年代を演じるという(全く無駄で無意味なフィルターをかけた)構成だ。ところがこの映画は現代の視点から事件を探ろうなどという意図はない。映画そのものが70年代に戻っている。それによって事件をよりリアルに再現しているのだ。この映画を何十年後かにビデオで観たら「いつ作ったんだ?」とパッケージを見直すに違いない。
[誰が歴史を封印したのか]
佐藤浩一演じる陸上幕僚監部(通称:陸幕)第二部別班所属の富田は、防衛大学校一期生である。(ちなみに『パトレイバー2』の荒川は陸幕調査部別室(自称)という設定だった。陸幕は主に作戦・諜報面を担う部署で、その全貌が明らかでないことも手伝って別班・別室という形で「暗躍する日陰者」という日本のスパイ的な要素を盛り込むのに都合がいい)防大一期生ということは自らこの道を選んだエリートである。当時の若いエリートがいかに国を憂いていたか、左は東大安田講堂、右は三島の自決という事件に代表されるであろう。だから冒頭の三島事件は必要だったし、献花するシーンに富田の動機の全てが集約されていると言っても過言ではなかろう。
[(どうみても自衛官の制服が似合わないのに)なぜ柄本明という大物役者を配置したのか]
「自分探し」という言葉は当時無かったような気がするが、時代の熱気の中で無気力に見えつつも自分の居場所を求める若者が多かった時代であったかもしれない(詳しく知りたければ吉田拓郎でも聞きまくってくれ)。だが富田は自分の居場所を見失っている。なぜなら自分の場所として志願した自衛隊という「組織」そのものが、「国家」という機構の中で居場所を失っているからだ。自衛隊そのものを否定されることは自己の存在さえも否定されることに他ならない。そして熱意に燃えていた若者ももう中年に差しかかる年齢に近づいている。もはや最後に彼が「存在」するためには「戦争」を引き起こすことしかなかったのだ。
[なぜ柄本明が自決を促したのか]
国内で殺人を行わせず自衛隊員を犯罪者にせず(これは決して人道的なものではなく組織の加担が表面化するのを恐れたためである。そして組織は「元自衛隊員」という保険もかけている)、いかにも日本的玉虫色の決着によって富田は「国家」に裏切られる。『パトレイバー2』の柘植行人であり『赤毛』の三船であり『上意討ち』だ。いや、赤穂浪士から現代のリストラされたサラリーマンに至るまで、日本の男に脈々と流れる最も美しく悲しいハードボイルドこそ「組織に裏切られた男」なのかもしれない。日本に深く静かに流れる「封建社会」の痕跡がここにある。
[唯一の証人を消す指示をしたのは誰だったか]
「ちきちょー!」在日二世(筒井道隆)のあらゆる思いが込められた悲しい叫びだ。彼もまた自分の闘いをしていたのだ。おKちゃんも指摘している通り、KCIAの男も金大中も全ての者達が闘っていたのだ。その一方で、闘いを終え守るべきものができた富田は、保険をかけたことが災いする。
[そして歴史は闇に葬られたのだ・・・]
●伝えたいことをわざわざ複雑にしたうえで評価を上げました
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (16 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。