[コメント] ウインドトーカーズ(2002/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
“戦争映画…ジョン・ウーが最も撮りたかったであろうジャンル”
当人にとっては、リアリズムを凌駕し銃撃戦をアートの域まで高めたその手腕をいつか試したいと思ってきた、最上級のジャンルだったことだろう。使命感をも感じていたに違いない。ところが世相は今、戦争映画に対し、リアリズムという前提とジャーナリズムという付加価値を求める傾向にある。映画という媒体を広義に捉えるなら、前者は百ある前提の内の一つでしかなく、後者は付加価値でしかないにも関わらず。その意味では、
“戦争映画…ジョン・ウーが最も手を出してはいけないジャンル”
でもあったのだ。自分の感性も今はその風潮の中にあるだけに、手を出して欲しくなった。
会見で当人が言っていた“この映画はドキュメンタリーである”との見地から観たら、苦笑するしかない描写がてんこ盛りだった。リアリズムの逸脱を言えば、戦闘描写に関しても、史実の考証に関しても、『パールハーバー』に勝るとも劣らない(具体例に関しては、そのうち甘崎庵さんやsawa38さんらが私なんかより的確な摘出をしてくれそうな気がするので割愛)。
ただ、同時にそれらの描写は、マイケル・ベイとは、たとえベクトルが同じ方向を指していたとしても演出力に雲泥の差があるので、映画の時間を停滞させない。バカな! と思いつつ、ついつい引き込まれてしまう代物でもあった。そこには、今までと同じジョン・ウーをジョン・ウーたらしめてきた血液=数々のテーマが、憚ることなく脈打っていたからだ。男のドラマ…戦場、秤にかける使命と仲間、その死、悔恨、苦悩、孤独、再び戦場、再び使命、新たな仲間、新たな友情、そして再び秤にかける使命と友情、新たな苦悩、その中で加速していく修羅場、加速していく葛藤。ドラマに関して言えば、不足していたものは何もない。
(ただし、演出のピークがスレーター組の顛末に来てしまった感があり、肝心のケイジ組の顛末が見劣りした。いつもながら“引き延ばされる”ラストだが、それをやっていい題材ではなかった。最後だけは、いつもの我が儘に陥らない、戦場のリアリズムを真摯に弁えた、自身にとっての革新的意匠を用意するべきだったと思う。)
それでも、主人公達が日本人村で日本人と触れ合うくだりなどには懐疑的になってしまう。“ウーの映画としては正しいのだ!”と自分に言い聞かせつつも、“実際はどうだった?”との疑問符が頭をよぎり、ともすれば虫酸が走る。“史実をそんな都合良く脚色するなよ!”と。どうしたって一言言いたい。あそこで何人の日本人の女・子供が自決した(させられた)と思ってるんだ!
終始、これら二つのアンビバレントな感情に引き裂かれながら観ていた。そこに映画自身が和解をもたらしてくれることは最後までなかった。
もちろん本人が言っていた通り、いつもと比べれば“リアル”と言えるシーンもたくさんあった。その演出、元来の性質を考えるなら、“世間が求める史実やリアリズム”と“自身が描きたい男の理想”−背き合う両ベクトルの間で相当苦しんだに違いない。
ただ、問題はもっと深いところにあるとも考えられる。
同じ東洋人たる日本人のアイデンティティは黙殺されていたし、ナバホ族の描写は(一人の男として見ると魅力的だが、民族の描き方としては)いささか浅薄に感じられた。ハリウッド・デビュー=ジョン・ウー自身のグローバル化にあたり、彼の中で香港人というアイデンティティは東洋人というアイデンティティにシフトし、今回有色人種というアイデンティティにまでシフトしてしまったわけだが、その過程でジョン・ウーはもはや空洞化してしまったのではないか? そんな一抹の疑念が湧いた。
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