[コメント] グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち(1997/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
元々ロビン=ウィリアムズ目的で観たこの映画。終わる頃にはすっかりマット=デイモンのファンになってた。勿論『レナードの朝』に続くお髭のウィリアムズもいい感じ。
ただこの作品一言で「良い」と言うには私には痛すぎた。高校や大学の頃、何で俺の周りは馬鹿しかいないんだろう。そう思い続けてきた自分自身を見るようで、正直凄く嫌な気分にもさせてくれた作品でもある。年経て、周りから逆に馬鹿呼ばわりされて何も言い返せなかった時代を経て、やっと世界と自分の内面のギャップにようやく整合性を見つけられた時にこれを観て、それでぐわんと来た。
勿論ここでのウィルは掛け値なしの天才で、私なんぞとはまるで違う。それに、なんと言っても彼には仲間がいる。何だかんだ言ってもチャッキーとウィルは親友なわけだし、平気で小馬鹿にしても言い返さない友達だっている(綺麗な彼女だっている…って、これは関係ないね(笑))。かなり悔しかった。
それでも、ここでのウィルは内面と世界との激しいギャップに悩んでいる。周りから期待されればされるほど、それが嫌になり、友情や愛情も信用できないほど、ウィルの内面は荒れ果てていた。そこに登場するのがショーン。
ちょっとだけ私の職業に関わることなのだが、私は多少カウンセリングについて学んでいる。それで見る限り、ショーンはカウンセラーとしては大失格。
映画好きの私のオン・ライン上の友人がこの作品を評して、「ウィルの「こんなの治療じゃない」と叫ぶシーンで引いた」。と言っていたが、まさにその通り。あれはカウンセラーじゃないよ。よくこんなので今までやってこれたな。
正直そう思った。いや、それは確かなのだが、後で考えてみたら、このシーン、ショーンはカウンセラーとしてウィルと接しているわけではなかった。そうではなく、彼と友達となろうとしていたと言うことに後で気付く。そこで再びぐわん、である。
劇場で小馬鹿にしようと努めていたショーンとウィルの会話がどれほど重要だったのか、今になって大分分かるようになってきた。
この作品は、ウィルとショーンが中心のように思っていたが、実は横にチャッキーがいることで、ますます「友達」の意味が増している作品だった。
ウィルとチャッキーの関係は、物語を通して、一貫して「友達“に”なる」関係だった。ウィルにとってチャッキーは最初は単なる強引な所のある友達だった。最初から下地が出来ていたのだが、それがラスト近くで、本当の親友であることにはっきりウィルは気付く。そして気付こうが気付くまいが、変わらずチャッキーはウィルを見続けている。このベン=アフレックの押さえた演技も最高に良し。
一方、ウィルとショーンの関係は「友達“と”なる」関係だった。面識のない、しかも年齢の離れた二人は互いに歩み寄らねば精神的な交流は出来ない。積極的に0から関わり合いを持たねば友達とはなれない関係だった。カウンセラーとしての資質で最も大切なものの一つに、「友達“と”なれるか」どうか、と言う点がある。どれほど型破りであったとしても、ショーンはそれに成功している。いや、むしろウィルの方がそれを知って、自分の方から友達“と”なろうと言う気にさせた。と言う事実の方が大きい。
この二人の友人を持てたと言うことが、何よりウィルにとっては素晴らしいことだ。
思えば、私にも「友達となってくれる」人は無くとも、「友達になれた」人は多かったはず。
今このレビューを書いていて思うが、本当に凄い作品だったんだな。これは。(考えすぎ?だったら気持ちのいい勘違いをさせ続けて(笑))
しかもこの脚本がデイモンとアフレックによって書かれたという、その事実を今知り、三度目のぐわん。が来た。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (15 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。