コメンテータ
ランキング
HELP

[コメント] 6才のボクが、大人になるまで。(2014/米)

「転居」の映画。制作現場の事情を推し量って云えば「主要でない出演者の長期間拘束を不要にできるため」パトリシア・アークェット一家は転居を繰り返すが、それによって作中人物の人間関係は不断の刷新を被る。「時間の経過」そのものを主題に掲げた映画のようでいて、物語は不思議と過去に拘泥しない。
3819695

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







大して面白いことが起こるでもない物語であるにもかかわらず退屈ともまた縁遠い映画だと云わざるを得ないのは、リチャード・リンクレイターらしく「ただの会話が面白い」ことにひとつの理由を求めることができるだろう。「ただの会話が面白い」との評はたとえばエリック・ロメール成瀬巳喜男などにも当てはまりそうだが、人類屈指の演出名人である彼らとは異なって、リンクレイターの会話の面白さは(『ビフォア』シリーズもまたそうであったように)良くも悪しくも役者の技量に拠るところが大きい。その点からの評価に限れば、エラー・コルトレーンローレライ・リンクレイターも最上の役者だったと云うことは難しく、仮にイーサン・ホークがいなかったならば失敗作に終わっていたかもしれないとも思われる。

ともあれ、さらに重大な理由としてここで指摘したいのは、現在性の純度が高められた語りについてである。上述の「物語は不思議と過去に拘泥しない」ことがそれに関わる。

いかにもコルトレーンの親友めいた風情で現れる子らは幾人かいるが、月日を隔てた転居後のシークェンスに彼らが再登場することはない。母の再婚相手である義父や、その娘・息子にしても同様である。一家の転居を契機として、物語は人間関係の面において過去を断ち切りながら進んでゆく。あるいは、十六歳の誕生日に車を譲り渡すという約束を反故にされたコルトレーンが父イーサン・ホークに憤るシーンがあるが、実際にそのような約束が交わされたシーンは画面上に描かれていなかった。出来事の因果関係における整合性を時間的に重んじる脚本であれば、このような事態はおよそありえないはずだ。

ただし、私たちの実生活と引き較べた上で、上のような状況が「リアルである」のか、それとも却って「作りごとめいている」のかを判定することにさほどの意義はない。ここで記しておくべきは、どうやらこの映画の語りは「時間の重み」などと呼ばれている何かからむしろ積極的に解放されようとしているらしいということだ(もちろん、この映画に「『時間の重み』などと呼ばれている何か」がまったく欠落していると云いたいのではありません。それは同一被写体の加齢ぶりを連綿と撮り収めた記録性のみによってもじゅうぶんすぎるほど担保されているでしょう)。出来る限り荷を減らして身軽であろうとするという意味で、語りそのものが転居的であると云ってもよい。このようにして語られることになるひとつびとつのシークェンスはもっぱら現在を生き、それぞれが一篇の短篇映画のごとき完結性を備える。翻って云えば、それらの集合『6才のボクが、大人になるまで。』としてひとまず語り終えられる一六五分間の映画もまた、「大人になるまで(“Boyhood”)」の限りにおいてのみ完結するに過ぎない。

むろん、これがこの題材にとって最善の姿だと断言することは難しい。編集の可能性が膨大であるだけに、改善の余地もまた少なからずあったように思えてしまうのは致し方ないところだ。しかし、そもそも、あらかじめ線的によく整えられた十二年間分の脚本を書き上げ、被写体たちがどのように成長・変化しようともその脚本に当てはめて撮影することもできたのだ。だが『6才のボクが、大人になるまで。』はそれを選ばなかった。すなわち、そこに認められるのは被写体の(おそらくはバイオグラフィに基づいた)被写体性を尊重する演出家の態度である。したがって必然的に虚実の錯綜した像が画面に結ばれることになるのだが、どうもその按配が面白さに貢献しているらしいのだから、とりあえず私はこの映画の連なるところにアッバス・キアロスタミ沖田修一滝を見にいく』の名を添えてみたい。

 ところで、映画が始まった当初の六歳のエラー・コルトレーン少年に対しては「すこぶる可愛らしなあ」などと愚にもつかない感想程度しか抱きませんでしたが、よくよく閲して見るとこの時点ですでに彼は犬的顔面の素質を備えておりました。父親にイーサン・ホークを持つことがまことにふさわしい配役です。ローティーンにまで成長してくると、その顔面には徐々にトム・ウェイツの風合いが加わり出し、「ほう」と思わされます。さらに「しかしトム・ウェイツというのはどうも引き合いとして最適ではない、もっと似ている人物が他にいるはずなんだから」と胸の内にもやもやを育てながら眺め続けていると、およそ志学を迎えたコルトレーン少年が短髪をややパンク風に逆立てて現れます。ここに至って私は膝を打ちました。「ジム・ジャームッシュに激似やん!」と。すなわち、いずれにせよ“The Sons of Lee Marvin”顔であります。齢を重ねるごとにいい顔俳優になってゆくことが期待されます。

(評価:★4)

投票

このコメントを気に入った人達 (7 人)disjunctive[*] けにろん[*] セント[*] jollyjoker[*] deenity[*] ぽんしゅう[*] 緑雨[*]

コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。