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[コメント] この世界の片隅に(2016/日)

アウシュビッツの後で詩が書けなくなるすず、聖女チェチリアの境地に至る。
寒山拾得

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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すずが利き腕を失う物語。本作の戦争映画としてユニークな点は、戦時下の生活詳述ではなく(そのような類例は多い)、女性が負傷し、しかも死なないことだろう。それは姪を失うのとは別の痛みがある。戦没者について映画はすでに多くを語り、我々は殆ど不感症に陥っているが、負傷して生き延びる女性を正面切って描く戦争映画は余り記憶がなく(『赤い天使』では手足が百本も切られるが若尾文子は不死身だし、『清作の妻』で傷つくのは若尾文子ではない。『原爆の子』など原爆を主題とした映画ならあるが ※追記:戦争映画ではありませんが、『共喰い』の田中裕子が空襲で片腕になった、という前例がありました。修正します)、恐ろしさを覚える。厭戦映画として強烈だが、それだけではない。

利き腕の喪失は即ち美術の喪失だ。本作、前半はすずの画と共に進行し、これは随分愉しい。市井の画家の自叙伝といった趣がある。波濤を兎に見立てる件など鮮やかなものだ。しかしこの美的態度は、戦争によって相対化されることになる。

波濤の兎は、最初の空爆の白煙を虹色に描く件と対比させられ、空爆の虹はさらに米軍爆撃の焼け野原と対比させられる。画家の想像力は波濤も空爆も分け隔てなく美的に捉えていたが、あの一面の焼け野原を見て、その限界を知らされる。アウシュビッツの後で詩が書けなくなるように。広島の惨状は、すずのタッチでは描きようがない。利き腕を失いもう画が描けなくなったのは、すずの美的態度への懲罰のように見える。

例えば本作が『ぐるりのこと。』のように、最後まで美術を生活からの退避場所として描いていたら、随分と平凡だっただろう。それではフロイトが「文化の不満」で述べた気晴らしのレベルを出ていない。ラストですずは、保護した戦災孤児に絵筆を与えて自分の想いを伝える、というありがちな纏め方もあったはずだが、そうはしない処に本作の力点が置かれている、と受け取った。

これは、希望に満ちた断念のはずだ。例えばラファエロは宗教的見地から、音楽の聖女チェチリアを、楽器を投げ出し天を仰ぐ姿で描いた。すずもそのような認識に至ったのだ、と捉えたい。収束の戦災孤児を保護する件は駆け足でお座なりに留まる(戦中の生活のリアルを追及したはずなのに、ここは全くリアルでない。苦しい生活のなか、誰もが孤児らを見て見ぬ振りをせざるを得なかっただろう)。しかし、戦争を通じてすずは具体的な行動を取る人になった、という理想が掲げられた、という意味において、このラストはいいものだと思う。

なお、太極旗の掲揚(敗戦直後にワンカット描写される)について話題だが、これが嫌韓な訳がない。だいたい、作画に膨大な数の韓国スタッフに協力を求めた作品であることはエンドロールを見れば判る。映画が信用に足るのは国際的に開かれたジャンルだからだと思う。例えば佐藤忠男氏は『二十四の瞳』を評して、日本人を被害者としてばかり描いて加害者の側面を忘れている、と批判した。『二十四の瞳』は私は好きな映画なので心外だったが、当時その認識が甘かったのは否定できない。本作はこの点進化している。終戦が韓国人にとって正反対の意味を持ったのだ、と示すこのワンカットは、すずの美的(独我論的)な視点の放棄という主題の背景として的確に機能している。

ただし、敗戦直後の絶叫については留保したい気持ちがある。なぜ唐突にそうするのか不自然だ。周りの大人が厭戦の諦念を示す自然さから浮いている。すずは軍国教育をもろに受けた世代であるから、というリアルはあるにしても、それならそうと前振りをすべきだったろう。

呉は私も知っている町だが、山の斜面にたくさんの家が建てられている。映画の描写は正確であるが、あれは自然とそうなった訳ではなく、軍の造営によって平地の住民が移転させられているのを忘れてはいけないと思う。私は他の旧軍港の町の出身だが、同様の町並みがあり、その住民には不便な処に移されたと、今でも恨みに思っている人が多い。映画では軍勤務の一家が住んでいるのでこの視点は消されている訳で、これでもって一般化されては堪らないと思う。誰もが自然に、純粋に戦争に参加した、というのは虚構である。

(評価:★4)

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