★3 | 軽蔑(1963/仏) | 醒めた視線は良いのだが、バルドーが夫をそんなに愛してるようにも見えなげで基本設定が成り立たず上滑る。本質下世話な主筋に付加されたバックステージもの映画へのオマージュも陳腐そのもの。特にラングの映画中映画は余りな抽象化の芸無さに幻滅。 | [投票] |
★5 | 女は女である(1961/仏) | 全くのオチャラケ話でしかないフザケ倒した代物であるうえに、殊更にカリーナが好きでもない俺なのだが、浮き浮きとした幸福感に感化されシンクロしてほだされる。屈折してなかった頃の純情ゴダール。その満ち溢れた喜びは逆説的に哀しくも愛おしい。 | [投票(2)] |
★2 | 女と男のいる舗道(1962/仏) | 娼婦であるというリアリズムが、ドライエルを見て涙し哲学者と会話するゴダール脳内醸成された「女性」と乖離しまくる。見てて恥ずかしくなるような青臭さ横溢。カリーナ愛はけっこうだがジャンル冒涜の連作の1篇。 | [投票] |
★4 | ゴダールの決別(1993/スイス=仏) | 入れ子細工の中身に関して訴求するものを持たぬが側の調査員絡みはゴダール作品中稀有なケレン。レマン湖畔で奥のフェリーを追っての移動撮影は空気の透明度も相まり天上界の風景めいてる。調査の顛末の停滞感と不如意な様はロメールのようでもある。 | [投票(1)] |
★4 | 中国女(1967/仏) | ある種の革命の萌芽がお遊び的な男女の嬉し恥ずかしイズムの中で生成される点を露呈させて傑作。カリーナと哲学者との青い即興から5年、大学教授とビアゼムスキーの掛け合いは、少なくとも内実を伴うものに感じられた。撮影はポップアート美の極致。 | [投票(1)] |
★1 | アルファヴィル(1965/仏=伊) | 大の大人のSF飯事。ハードボイルドに無機的な世界を描こうとしても否応なく愛に飢えたメンタリティが介入する。技術的にも中身の文明論にしても未だ稚拙。ゴダールにとって甘さに恥じらい無き時代と乾いて先鋭化する時代の端境期の惰性が産んだ愚作。 | [投票(3)] |
★5 | ウィークエンド(1967/仏=伊) | 淡彩のアパートから始まる物語が緑の沿道と青い空、白い雲と原色の車の列に巻き込まれる。ポップアートの極みにファルスとスペクタクルが混在しゆく有り得なさが、そこに留まらずモラルを蹂躙し最果てまでいっちまう。分水嶺に立った覚悟あればこその境地。 | [投票(2)] |
★4 | パッション(1982/スイス=仏) | 80年代にしてもアナクロな階級闘争や言葉尻に終始する「光」等相変わらずの胡散臭さだが、ゴダール帰還に当時の欧州トップの2大女優をかませクタールと再結合適った本作はやはり感慨深い。端役に至るまでの「顔」とスイスの空気の透明感が感動的。 | [投票(3)] |
★5 | 気狂いピエロ(1965/仏) | 全てのシーンに横溢する哀感はポップな色彩と採光で皮相にも倍加され、縦横で流麗なカメラワークは運動の儚さを照射する。カリーナとの終焉が産んだ男泣きこそ繰り返し模倣され陳腐化していく先人達の遺業の中で断固としてそれを許さぬ孤高の美しさだ。 | [投票(5)] |
★3 | 勝手にしやがれ(1959/仏) | 手持ちノーライトカメラに時間軸無視の繋ぎや既成曲の断片使用に数多の引用など全てはここから始まった起源的価値を剥ぎ取り残るのは青臭い男女の痴話。先駆者は常に陳腐化するの例えから逃れられてるのは結局ベルモンドとセバーグの魅力があるから。 | [投票(2)] |
★3 | ゴダールの探偵(1985/仏) | 冒頭まさかと思わされるジャンル映画の醍醐味が当然あるわけもなくホテルを舞台にした群像劇のドラマトゥルギーは雲散する。それでもゴダールやから仕方ないが通る人徳であろう。アグファのネオンサインと記号化する「金返せ」は仏時代の残滓を思わせる。 | [投票] |
★2 | ゴダールのマリア(1984/英=スイス=仏) | ミエビユ篇はフランス映画らしい少女期のひとコマをすくい上げた愛らしさがあるのだが、ゴダールの本篇は聖書の現代翻訳というアイデアのみが先行した上、音と映像のコラージュで解体されまくり殆どひとりよがりとしか思えない。手法の演習は超退屈。 | [投票] |
★3 | 彼女について私が知っている二、三の事柄(1966/仏) | パリ郊外で圧倒的質量ですすむ再開発とニュータウンの主婦売春。コンセプトは驚くほど分かりやすく魅力的なのに、哲学的モノローグを散りばめ強引に自問自答の展開へと持っていこうとしている。 | [投票(1)] |