[コメント] ミリオンダラー・ベイビー(2004/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
実は、観る前にはこのコメントはどうやって書くか、そのプロットまで頭の中で出来ていた。俳優としてのイーストウッドと監督としてのイーストウッドのスタンスの違いと、そこに貫く彼のテーマについて、この作品を絡めて書くつもりでいたのだ。
それで本作を鑑賞中、前半から中盤に至るまでは、「なるほどなるほど」と思って観ていた。はっきり言って、そこまでは私の思い通りのコメントが書けたはずなのだ。しかし後半になってそれが一変。まさかこんな風に。しかも前〜中盤の伏線をこう使うか!
…いや、そうじゃない。このテーマは、今自分が置かれている境遇についての問いかけが、怒濤のように迫ってきたのだ。
「俺は一体何をやってるんだ。いや、何をやらなければならないんだ?」そう言った自問自答が怒濤のように押し寄せてきて、映画が終わっても、頭抱え込んだまま茫然自失で席を動くことが出来なかった。近くのカップルが笑いながら席を立ったことで、ようやく現実に戻された。
それで、それまで考えてきた本コメントのプロットやら全部頭の中からふっとんでしまった。
本作は確かに感動するものではなかった。物語として観るなら、好きな人と嫌いな人がはっきりと分かれるだろうし、私だってはっきり言えば、こんな終わり方は嫌いだ。だけど、確かにとんでもない衝撃を私に与えてくれた。打ち倒された。
本作は齢70を超えているイーストウッド演じるフランクと、その半分の年齢ながら、ボクサーとしては既に襲い年齢になってしまったスワンク演じるマギーとの愛情の物語のように紹介されているし、確かにそうも見えなくもないのだが、なんか私には全く違って見えた。
ここに私が見たのは、「責任」という言葉だった。しかもかなり痛々しい。
ボクシングとは一応スポーツであるが故に個人の資質がその大部分を担っている。とはいえ、それを支える人間なしでは成り立たないものでもある。そしてそのサポートを担っているのがトレーナーであり、それ故に彼らは責任を持つ。
ただし、その責任の持ち方は、時として選手のためにならないこともある。
フランキーは優秀なトレーナーでありながら、チャンピオンを育て上げることは出来なかった。チャンピオンとなる素質を持ったボクサーは皆、フランキーに恩義を感じつつも、ステップアップのために彼の元を離れていく。劇中でこれはスクラップが「俺のせいだ」と言っていたが、決してそれだけではない。フランキーは自分自身に大変重い責任感を課していたからだろう。一旦面倒をみるとなったら、全てを自分に抱え込んでしまう。だからこそ、彼は慎重になりすぎ、結果的にタイトル戦を何度も見送ることになってしまい、やがてしびれを切らしたボクサーの方が離れていくことになる。
スクラップはそれをよく知っていた。知っていたからこそ、フランキーから離れることが出来ず、一方、才能あるボクサーには新しいトレーナーを紹介したりもする。フランキーとスクラップの関係は、お互いに頼り合いつつも、傷つけあっていく間柄なのだ。この辺りの複雑な心理を見事に体現したフリーマンがオスカーを取ったのも頷ける。
そしてその責任感の重さは、フランキーにマギーの面倒を看ることを躊躇させる。年齢云々ではなく、一旦引き受けたら、最後まで担わねば気が済まない自分自身が怖かったからなのではないだろうか?
しかし、色々と葛藤はあったものの、フランキーはマギーを受け入れる。そしてその責任感を発揮し、彼女に次々と好敵手を紹介していく。袖の下を渡して対戦相手を見つけていったのも、決して若くはないマギーを早くステップアップさせねばならないという責任感から出たものなのだろう。だからあれは公的な金ではなく、あくまでポケットマネーであったはずだ。
そして今回のフランキーの責任の取り方は、前のように慎重に慎重を重ね。と言うのとは異なり、全盛時代がそう長くないはずのマギーのために、最短距離でタイトル戦に突き進むこと。
物語として、ここが一番盛り上がるシーンで、次々と相手を打ち負かしていくマギーの姿は大変凛々しかった…が、それは大変痛々しい光景にも見えた。
そしてその責任感は、マギーの全身麻痺という事態でクライマックスを迎えることになる。
彼は、そこで全てを自分に引き受けた。一旦面倒を看ると決めたからには、最後まで命を賭けてその責任を引き受けた。
だからこそ後半の30分が映える。フランキーにとって、マギーは「ミリオンダラー・ベイビー」つまり100万ドルを稼ぐ存在であったことよりも、自分が責任を持って引き受けねばならない存在だという方が遙かに大きかったのだろう。そのためには不実な家族からも彼女を守ろうとしたし、彼女の望みを汲み取り、安楽死までも責任を取った。
私が映画終わってからも動けなかったのは、そこにあった(と、今ではそう思う)。
仕事上、人に対して責任を持たねばならない立場にあって、私は何をやっているのか。本当にそこまでの責任を持っているのか?いや、そもそも、その覚悟があるのか?それを自分に問いかけられた気分で、打ち倒された。今の私にとって、それはやはり“衝撃”としか言いようがない。
最後にこの作品は伏線の張り方が実に上手いのも挙げておきたい。
特にフランキーがレモンパイに対して偏愛を持っていて、マギーの紹介してくれた小汚いダイナーで最高のレモンパイを食べて「もう死んでも良い」と言っていたのが心憎い。最後にその店に彼が入っていくあたり、語られることのないラストを予見させて…そうそう。最後にマギーの所に行く時、バッグに入れた注射器が二本あった事も、ちゃんとラストを暗示しているね。
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