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[コメント] 時をかける少女(2006/日)

テーマは、過去の修復――から、時間の共有へ。芳山和子(大林版ヒロイン)の職業。キャッチボール。衝突や転倒の危険を孕みながら突っ走るヒロインの、身勝手と純粋、つまりは青春。
煽尼采

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







原作未読、大林版は未見でこれから先も観たいとは思わないので(大林作品は幾つか観、感性が合わなさ過ぎて耐えられないのを感じたから)、今回のアニメ版との異同は不明だけど、真琴の、タイムリープという能力の受け入れ方が実利的であっけらかんとしているのが今っぽく、あそこまでサバサバしていると却って清々しい印象さえ感じた。人力デロリアンの如き疾走と、コロコロと過去に転がりこんで戻ってくる、リズミカルな反復の快感。

この快感がゆき過ぎて取り返しのつかない事態に至る加速の危うさを、あのブレーキの壊れた自転車が象徴する。と同時に、二人乗りの意味合いも大切な所。真琴は時間遡行の楽しさを独り占めし、やがてその行為が呼んだ不幸の責任を独りで背負い込んでしまうのだが、そこに救い手として登場する、もう一人のタイムリーパー、千昭。余り幸福とは言えない状況であるらしい未来から来た千昭は、真琴の孤独を救った存在であると同時に、真琴より孤独な異世界の人間として、彼女の前から去らざるを得なくなる。

彼と真琴が、時間の止まった街を歩きながら会話を交わす場面は秀逸。静止画の微妙なズレによって画面に立体感を作り出し、止まった世界を演出。そこに二人ぼっちにされた真琴と千昭、という構図は、後に真琴が「千昭の事が好き」と、千昭に惚れている友人・友梨に敢えて告白する場面に必然性を与えている。千昭は、真琴への告白を、彼女のタイムリープによって無かった事にされ、友梨と付き合いはじめるが、要はその程度の、若々しい淡いあやふやな恋心なのだ。真琴も、千昭や功介とは‘友情’という関係を保っていたがっているように見える。ちょっとしたズレで変化する、未熟で敏感な感受性。反復されるタイムリープは、そうした彼らの関係性や心情を、様々な角度から立体化して見せてくれる。

猪突猛進、単細胞な真琴が、千昭や功介にカノジョを作らせようとする場面は、千昭の場合、偶然に友梨に消火器がぶつかり、その怪我を心配した千昭が保健室にやって来て、という流れ(元々は真琴に向けて飛んで来たのを千昭が庇うのであり、タイムリープによってこの「真琴を庇う千昭」という惚れ構図(?)も無しにされる)。功介の場合は、スイングして投げられた男子生徒が飛んでくる所に功介と、彼に惚れている後輩・眼鏡少女の果穂を呼び出して一緒にぶつからせる、という作戦。どちらも、衝突絡みであり、真琴は自分の代わりに他人に衝突してもらう事で、事態を良い方向へ誘導しているのだと言える。だが、功介と果穂は、真琴が自身のタイムリープの能力に気づいたあの鉄道事故に遭い、真琴の代わりに電車に衝突する。しかも、真琴の代わりに、ブレーキの壊れた自転車に乗ったせいで、だ。つまり、ブレーキが利かないまま突っ走った真琴の行動のせいで、事態そのものがブレーキの壊れた状態になってしまっていた訳だ。

衝突とは、本来は事故、意図せざるハプニング。この映画の冒頭、キャッチボールの球がどこかへ飛んで行ったかと思うと、真琴の頭上から落ちてきて衝突しそうになり、実はそれが夢で、目覚し時計に衝突される、という場面で映画が始まる。つまり、真琴が本来コントロールしようもない「時間」に衝突されるという、深読みすれば象徴的とも言える場面。本編中でもキャッチボール中に顔に球を受けてしまう場面がある。いつも会話を交わしながら、言葉のキャッチボールと同時進行する球の投げ合いが、互いの呼吸がずれる事で衝突が起きる。物理的な衝突が、コントロールできない「時間」や「他人の想い」と真琴とのズレの暗喩にもなっているように感じられる。

タイムリープした自分に驚いた真琴が「魔女おばさん」和子に会いに来る場面で、ロビーをウロウロする真琴は警備のおじさんに「そう焦らずともすぐ来るよ」と笑われるが、この辺りにも彼女の直情的な性格が表れている。だから和子が「真琴くらいの年の女の子にはよくある事よ。例えば朝、何にもしたくないなー、と思ってたら、気がつくと夜。私の大事な日曜はどこに行ったのーってね」という話は、適当に誤魔化しているように見えて、実はこの映画の本質を突いているようにも思えなくはない。和子は「おばさん」と呼ばれても、アニメにありがちな訂正を求める台詞は吐かず、何やら時の経過というものを黙って受け入れているようにも見えてくる。

原作や大林版のヒロインでもあるらしい和子の職業が、絵画の修復師だというのは大事な所。かつてタイムリーパーだった(らしい)彼女は、過去を改変する立場から、過去を復元する立場へと転身した訳だ。それはつまり、誰かが絵という形で残そうとした想いを受け継ぐ者になったという事だ。そんな和子が修復している絵は、千昭のいた未来では既に消失し、所在が分かるのはこの時代だけ。千昭はこの絵を一目見て、一生の記憶として刻み込む為にタイムリープしてきたのだ。つまり和子が千昭を現代へと呼び寄せたようなものだ。

千昭の住んでいた未来は、この絵だけではなく、空も、川も、大勢の人も、見る事が出来なくなっているようだ。そんな「未来」はこの作品に於いて、この僕らの住む「今」が実は儚く、だからこそ貴重なものなのだ、と感じさせる役割を果たしている。つまり、様々なものを消失させる、時間そのものの残酷さとしての「未来」。この映画が、恋や友情に不安定に揺れ動く登場人物たちの織り成す青春物語だという設定が、大きな世界観にまで拡張されているのが理解できる。つまり、若者の惚れた脹れたを軽いタッチで描いただけの軽薄な話に終わらず、その軽さは、時の流れの切なさ、という普遍性のあるテーマへと昇華されているのだ。日常の内に閉じた、繰り返される時間から、そうした時を過去へと押し流す時間、更には、日常を取り囲む世界そのものを変えてしまう、歴史的時間へ。

そうして、「時」というテーマは広漠とした大きさへと拡大していくのだが、真琴があの絵について「未来で見て。私が何とかするから」と千昭に宣言する場面は、そうした手に負えないほど大きな時間というものに、精一杯抵抗しようとする健気さが表れていて、いやぁ、青春だなぁ、と。和子が真琴に言う「あなたは待ち合わせに遅れている人がいたら、走って会いに行く人でしょう」という台詞は、和子自身、かつてタイムリープしていた頃の自分と真琴を重ね、真琴を通してかつての自分をやり直したいという気持ちを漏らしていたのだろうか?と、原作も大林版も知らない僕にも感じさせてくれた。ひょっとしたら僕の勘違いかも知れないが。

映画の最後に真琴は、功介に加えて果穂ら三人の後輩たちを呼んでキャッチボールを始めるが、キャッチボールというのも、同じ動作の反復だ。ただしそれはタイムリープと違い、誰かと時を共有する事でしか出来ない事。時間を渡り歩き、過去を改変する事で他人の心すら別の方向へ向けようとしていた真琴だが、最後にはそうした自由よりも、他人と時を分かち合う事そのものに意義を見出していたように思える。

あの修復された絵を通して、和子から真琴、真琴から千昭へ、と、これもまた一つの、時間を越えたキャッチボールだろう。和子によれば、あの絵が描かれた時代は、大戦争と飢饉で、世界が終わろうとしていた時代。千昭の時代の事を連想せずにはいられない。彼はこの一枚の絵を追ってタイムリープしてきたのだが、時を越える、という意味では、この絵もまた、過去から現代へと時を越えてきたのであり、ここに、思いが時を越える、という青春映画的な物語性が、歴史的時間に投影されているのが見てとれる。この映画は、人類史を一個の青春映画にした作品、とも言えるだろう。

劇中で使用されていた、バッハの≪ゴルトベルク変奏曲≫は、一つの主題を三十の変奏に展開したもの。最後には元の旋律に戻るが、数々の変奏を聴いてきた鑑賞者は、最初に聴いたのとは違う印象を、その旋律に対して抱く事になる。この映画はキャッチボールに始まってキャッチボールに終わるが、最初のそれは真琴が独り見ている夢であり、タイムリーパーとして独り別の現実を体験していく彼女のあり方を先取りしている。だが最後のキャッチボールは、そこに他者を迎え入れる形で行なわれるのだ。最初のタイムリープの際、真琴は和子の所へ駆け込み、「私、生きてるよね?」と確認する。つまり、互いによく知り合っている他者と顔を向き合い、言葉を交わす事でしか、人は自分の存在に確証を得られないという事が、既にこの時点で示されていたのかも知れない。

(評価:★4)

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