[コメント] 千と千尋の神隠し(2001/日)
宮崎作品の中でこの作品ほど、その解釈について議論が白熱した作品はあったろうか。
往年の宮崎ファンは、『千と千尋』はどこか未完成な感があり希薄で頼りないと言う。 確かに「子供」である千尋や湯婆婆の坊やの生き生きと成長していく様に比べ、宮崎駿自身を無意 識に投影していると思われる「大人」のカオナシは無表情で暗い。そのカオナシを自身の理想郷で ある銭婆の里に置いてきてしまうくだりは、まさに自己ループに陥った宮崎駿の悩める心を表して いるかのようである。
巨匠、宮崎駿は衰えてしまったのか。
別のメディアでは有るが、漫画界の巨匠、手塚治虫と比較してみる。自身ライフワークという『火の鳥』 にて、彼の若き頃の作品と晩年の作品を読み比べると、巨匠たる悩みがよく分かる。晩年の作品は、 若き頃の作品に勝るとも劣らない鋭い視点で描かれ、主張とその方法が一貫しているが、返って作者年齢と 作品年齢に乖離を感じ、無理を感じて痛々しい。その理由は、「手塚さんは新人にまで真剣に ライバル意識を持つ」という同業者たちのコメントからも伺い知ることができる 。対して、今回の宮崎作品『千と千尋』は主張を感じないが無理も感じない。 その所以は、自身の主張や作風ありきではなく今の「宮崎駿」の表現の仕方で 素直に作品を仕上げているからであろう。そしてそれは、宮崎が期待する、 映画を観る者との関係の変化によるものではなかろうか。
マクルーハン的に言えば、『ナウシカ』がホットな完結型の作品とすれば、 『千と千尋』はクールな参加型の作品と言える。『ナウシカ』は、脚本にも宮崎思 想にも寸分の狂いがなく、濃密で熱いメディアが観る者を圧倒する。 そこに受け手の主観の入る余地は無い。対して『千と千尋』は、物足りなさを感じる一方で、 観た者はその間引きされた描点を探し始めるのである。つまり私たちは宮崎作品の中に参加し 、自身の生活や人生を通じてそのストーリーを完成させると言う嬉しい任務を与えられるのある。
この宮崎駿の「権限委任」を、余裕の英断と言わずして何と言おうか。
追記)アニメという日本が誇れる優秀な文化に対して賞が与えられたことに胸が熱くなりました。本人のコメントに関わらず、こつこつと長年文化を築き上げた宮崎氏と多くの関係者の方々に敬意を表します
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