[コメント] セーラー服と機関銃(1981/日)
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どんなに歌や踊りがへたでも、バックに何十人ものプロのダンサーを従えて歌うのがアイドルだった。明らかに後ろのコーラスの人のほうが歌が上手かろうが、アイドルとは崇めるものであり、誰もその構図に異議を唱えたりはしなかった。そういう存在が90年以降は消滅してしまった本当の「アイドル」である。昔のアイドルには全能感があったのだ。そして薬師丸ひろ子といえば、当時アイドルの最上位に位置していたのである。
まったく性的な欲求に応えることなく3人のボーイフレンドを抱え込み、やくざの組長になって組員を心酔させるなんていう、無茶な構図を映画でやすやす確立できてしまっているのは、そういう当時の「アイドルの図式」にのっとっているからこそだと思う。演出家にしても、共演者にしても、図式には不自然を感じなかったと思う。
06年長澤まさみが主演したTVドラマが、女子高生組長という設定を成立させるために苦慮していたことと比較するとよくわかる。この差異は「組員の死」の描き方でより顕著だ。「かわいい子分の仇をとってやるわよ」と軽々と言ってのけられるのも全能感のなせるわざで、長澤まさみのTVドラマが、死の痛みや悲しみを、一端ふつうの高校生レベルで味わわせ、また意識的に組長の役割に戻させていくという手順をとっていたのとだいぶ異なる。なぜそうするかというと、06年という時代はそれをやらないとコメディになってしまうからだろう。
そんな80年代の「アイドル映画」ではあるが、監督に一日の長があるのは、そうはいっても「いかれた話」であるということを知った上で、マジ(80年代におけるマジ)で作らなかったことだろう。敵の事務所に殴りこみに行くビルの廊下を歩きながら、薬師丸ひろ子はスキップのようにくるくるっと回ってみせるのだ。おかしい。いかれている。いかれているが、こういう演出がなく、悲痛な決意での殴りこみにしていたら、この作品はどうなっていただろう? それこそ「女子高生がなんとヤクザの組長に!?」ふうのただの「脱力映画」になってしまっただろう。そして悲痛な殴りこみでなく、けれんみのあるシーンだからこそ、機関銃を乱射して「カ・イ・カ・ン」という名台詞につながるのだ(この場面の大門正明の破顔一笑と、渡瀬恒彦の周りを睨みながら組長を案じる表情のコントラストは素晴らしい)。しつこいがTVドラマのあのシーンで、「カ・イ・カ・ン」といえなかったのは、すべて作品の最初からの基調の違いだ。
余談。ネットの記事で読んだのだけど、機関銃乱射の際の渡瀬恒彦の表情は、小道具が破裂した破片が薬師丸ひろ子の目の下に本当に傷を負わせたのに気づき、演技を継続しながらも「やばいんじゃないか」とスタッフの反応をうかがっているからだ、ということらしい。そういうふうに見てみるとそういう気がしないでもないけど、どうなんだろう?
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