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[コメント] しあわせのかおり 幸福的馨香(2008/日)

石川県の冬からスタートするこの映画は当然ながら柔和な日本的な光をまとうことになる。金沢市街を舞台になぜ中華料理をテーマにした物語が始まるのか。もちろんこれには豊かなたくらみが働いている。その仕掛けの視覚的な象徴である「橋」と「写真」に注目しよう。
ジェリー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 紹興の出身ながら店の名前には「小上海飯店」という名をつけるこの中国人王さんの店は、名前の通俗性といい、「小」という文字の付与のされ方といい、その名前だけで性格というか営業姿勢が伝わってくる。つまり、店の暖簾を高く掲げて高い格式をアピールするつもりも無ければ、店舗の作りを大きくな構えにすることを狙ったものでもなく、名前にふさわしい小ぶりさを保っている。主人一人で弟子も持たずに、単独で客に対面し食事を供することを建前とする王さんの店にふさわしいネーミングである。しかし、隠し味の紹興酒を現地から取り寄せていることがのちにわかる。それこそこの王さんの味の秘訣であり、ここには王さんのひそかな矜持がある。王さんが父や母と早くに死に別れたらしいことも後で分かる。家の大事なところにおいてある古い一枚の写真がその消息を視覚的に物語る。

 もう一人の主人公である山下貴子は結婚して東京に住んでいたが夫を亡くして娘一人を連れて故郷金沢に帰ってきた。彼女の住むアパートはそれほどきれいなものではなく、小さな子供と二人で暮らしていくにしても狭い。狭いながらも、このアパートにも王さんの家と同様、亡くした夫の写真や子供の頃亡くした父親の写真が置いてある。貴子は現在金沢の百貨店に勤めており、王さんの作る評判の高い蟹焼売を百貨店で販売するという使命を持って王さんの店にやってくる。

 当初はビジネスライクな接点からはじまる二人の関係が、やがて食を通じたキャリアの交流となり、また同じく早くに親を亡くしているという境涯が共通していることから来る親子めいた交流にまで進んでいくことは、この映画の初期設定から見ても当然の進みゆきである。そこに不自然さはない。むしろある意味予定調和にストーリーが流れすぎという批判が成り立つかもしれない。確かにこの映画、最初から最後まで二人の作り出す調和のバイブレーションに満ち溢れている。途中不協和を奏でることがあっても、それは多分乗り越えられるだろうという期待にかき消されていく。このバイブレーションの響き具合がこの映画のよしあしに関わる大事なポイントになっていく。 二人の間にどこまで大きく、どこまで過去や未来にまでとどくような豊かな波動性を確保させるかが創作の上で最大のポイントなのである。

 そして、この波動性の空間的なスケールを確保するために、三原光尋が考え出した仕掛けが中華料理なのだった。金沢は食都だから、日本料理でも良かった筈なのにあえて中華料理とし、中国人を登場人物にしたのには周到な計算がある。それは、山下貴子を遠く海を越えて渡航させたかったからだ。全く言葉の通じないところまで貴子を連れ出し異文化の中での他者との交流を描きたかったからだ。徹底した他人であればあるほど、分かり合えた地点からは黄金色の豊穣さに満ちた波動が広がってゆくのだ。

 この映画の主要舞台である王さんの店が「橋」の傍にあることは実に重要である。すなわち、二人が出会うために渡河(=渡航)をしなければならないことを意味する。上海のシーンにおいても橋を渡る映像がインサートされていたが、我々はこれに無自覚であってはならないのである。

 また、この映画は、二人の交流だけを描いている映画なのではない。当然そのほかの脇役たちとの交流も描かれているのだが、今回そこに筆をさしはさむ余裕が無いので、「写真」のことだけに触れたい。この映画における「写真」は、冗長な回想やフラッシュバックに陥ることなく死者たちとの関係を回復する二人の主人公を描くために導入された最小かつ最も効果的な仕掛けである。中華料理を教える=教わるという新たな目的を持ち始めた二人の活動は、その写真に込められたエピソードによって(煩雑だから記さないが)、過去にさかのぼり、一種の追善供養のような性格を帯びてくる。追善はすなわち、始原的な時間に立ち返っていくことを意味する。過去に解けなかった課題を解決すると共に、そのことで過去からの訣別(というより解放)することになってくる。彼らの間の波動性は空間の広がりを確保すると同時に、大きな時間的結節点を刻みだそうとしていることになる。

 この結果、観客はこの二人の主人公と同様、日本人だれもが今感じているであろう正体の知れない閉塞性から開放され、何にもとらわれない自由な時間を生きているのに気づくだろう。それは我々には見ている時間の間だけの束の間の経験かもしれないが、物語の構造上は無限の未来に通じていく時間である。老人である外国人と、定職が無く未亡人である子連れの女性。マイノリティの符牒を何枚も貼り付けている二人であるが、単なるご都合主義と馬鹿にすることのできないところまで強さと豊かなバイブレーションを奏でることが出来たのには、実に周到なたくらみが創作の仕掛けの中にあるのだ。少しも観客をだましたり裏切ったりすること無く、予定する地点に観客を連れていくことを基本方針とする映画があっても良い。映画は鬼面人を驚かすものばかりである必要はない。(正直、突如うたいだされた「ホームスイートホーム」には驚かされたが)

中谷美紀藤竜也も、監督の要求に見事に応えた繊細で柔軟な演技である。

 さて、なぜ金沢なのだろうか。この映画には歴史の街上海や紹興が登場するから、それに拮抗する日本は、日本らしい光がなければならない。ゆえに日本海側の雲で裏ごしされた光を必要としたのだと勝手に私は推測している。中国人居住者がどれだけ住んでいるかを必ずしも詳しく知っているわけではないけれども、中国人の孤立しやすい環境であることも金沢を選ぶ条件だったのではないか。横浜や神戸が舞台では、王さんの日常的な一人ぼっちさが実感できない。この映画の主題を損なうのだ。

(評価:★4)

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