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[コメント] 街のあかり(2006/フィンランド=独=仏)

街のあかり』はマッティ・ペロンパーを喪って以後のカウリスマキの集大成である。そして、私がカウリスマキを愛する理由について。
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**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
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アキ・カウリスマキが世界で最も愛する映画作家である私は、出来はどうあれ、彼の作品を尋常な気持ちで見ることはできない。その私をもってしても『街のあかり』をカウリスマキの最高作と呼ぶことはできない。しかし、これは新三部作(これは「ペロンパー亡き後の作品」とほとんど同義である)での試みの集大成と成りえている。

ではその試みとは何か。私に云わせれば、それは「視線」の演出である。天才的な俳優であり唯一無二のイコンであったペロンパーを失ったカウリスマキは、自身の映画をより強く統制する必要に迫られた。もはやペロンパーの「顔」に頼ることはできなくなったからだ。そこでカウリスマキは「視線」の演出を研ぎ澄ませてゆくことになった。カウリスマキ的なデッドパン演技を強いられながら、しかしペロンパーほど豊かですばらしい「顔」の持ち主ではない俳優たちは、その「視線」の方向によっておのれの感情を表現させられる。例を列挙することはしないが、ひとつだけ。終盤でのヤンネ・フーティアイネンの台詞「もうダメだ、すべて終わった。……というのは冗談」が可笑しくも私たちの涙を誘わずにいられないのは、「もうダメだ、すべて終わった」がぼんやりと前方に視線を落としたまま話され、「というのは冗談」がしっかりとマリア・ヘイスカネンを見据えて話されるからだ(ここで新三部作の一作目『浮き雲』を思い返してみよう。『浮き雲』のラストカットの感動も夫婦の「視線」の方向性に拠るところが大きかったのではないだろうか)。「新三部作での試みの集大成」と私が云ったのは、『街のあかり』が新三部作の中で「視線」の的確な演出を最も徹底して行っている、という意味においてである。

また、これは「手」の演出の映画でもある。この映画の物語において決定的な意味を持つ事態は、ほとんど「手」のクロースアップによって観客に告げられる。フーティアイネンがマリア・ヤルヴェンヘルミの前で宝石店の暗証番号を入力するカット、ヤルヴェンヘルミがフーティアイネンの飲み物に睡眠薬を混入するカット、警察がフーティアイネンに手錠をかけるカット、フーティアイネンがコップの底でナイフを研ぐカット、そして云うまでもなくラストカット。ラストシーンにおいてフーティアイネンの瞳が閉じられることで、もっぱら彼の感情を観客に伝える役目を果たしていた「視線」は消滅してしまう。しかしその直後のラストカット、フーティアイネンとヘイスカネンの結ばれた手のクロースアップによって、私たちはこの「結ばれた手」が決定的な意味を持つことを知る。実に見事で、感動的なラストカットだ。

ところで、新三部作が全てささやかなハッピー・エンディングを迎えることになったのは(『街のあかり』はささやか「すぎる」のだが)、確かにカウリスマキの優しさに拠るのだろう。だが、私たちはそのカウリスマキの優しさに安易に涙することは厳に慎まねばならない。カウリスマキの現状認識はかつてないほど厳しくなっているからだ。

旧三部作は一貫して「もはやフィンランドには希望は無い」ということを描いていた。ここで「フィンランドには」とは「労働者には」と云い換えることもできるのだが、徹底して救いの無い『マッチ工場の少女』はもちろん、『パラダイスの夕暮れ』『真夜中の虹』のいささかおとぎ話的な結末でさえ、それは「もはやフィンランドには(労働者には)希望は無い」という厳しい現実の正確な反映であった。

では、新三部作におけるハッピー・エンディングとは「旧三部作のときよりはマシになった現実」の反映なのだろうか。私はそうは思わない。希望の不在を希望の不在として描くことが許されないほど、いま世界は絶望的な状況に直面している、カウリスマキはそう捉えているのではないだろうか。厳しすぎる現実に対する認識を持ちながら、あるいはそれゆえに、その現実に生きる人々を優しさと慈しみを込めて描かずにはいられないカウリスマキ。私がカウリスマキを愛する理由はまさにそこにある。

私が思うに、カウリスマキは確かに才能に恵まれてはいるが、決して天才的な映画監督ではない。彼自身もかつては「自分はブレッソンにも小津にもなれない。おそらくゴダールの地点に達することさえもないだろう」という諦念を持っていたのではないかと思う。それはつまり「自分は映画史を一変させるような、『映画』という観念自体をも揺るがしてしまうようなとてつもない傑作を撮ることはできないだろう」という諦念であり、これはそのような映画を撮りたいという映画作家としての野心の裏返しでもあるのだが、今のカウリスマキはそのような野心とは無縁なところにいるように思われる。事実、彼は『過去のない男』の公開時に「無意識の自我の中に、自分が“普通の”監督であることを望むなにかが潜んでいるのかもしれない」と語っている。スタイルの面では『マッチ工場の少女』以上にブレッソンに接近したとも云える『街のあかり』には、しかしブレッソンを超えようという野心もブレッソンを真似してみたいという無邪気なシネフィル的欲望も存在しない。この絶望的な現実を描くにはブレッソンのように厳しいスタイルが必要だった、ただそれだけのことなのだろう。

こうした云わば野心の放棄(と私が勝手に思っているだけですけど)を「作家としての後退」といって批判することは容易い。だが、仮に「後退」が事実だとしても、それはカウリスマキが絶望的な現実を見つめずにはいられないことに由来する。だから私はその「後退」をも愛そうと思う。それがカウリスマキを愛してしまった者としての私の因果だ。

これからカウリスマキが果たして野心を回復することになるのか、それとも野心とは無縁のところに留まりつづけるのか、私には分からない。いずれにせよ私は一生カウリスマキの映画を見つづける。そしてカウリスマキが作家的野心云々とは無関係に語られるべき傑作をものにするのを待つ。

(評価:★4)

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