★3 | ボウイ&キーチ(1974/米) | このアナーキーで切ない物語を、今の時代に(まして、日本人の私が)共有するためには1930年代のアメリカを想起させる記号が必要で、おそらくそれは全篇に流れるラジオ番組なのだろうが、残念ながらそれだけでは意味は分かっても感情は伝わらない。 | [投票] |
★4 | M★A★S★H(1970/米) | 「別に死にたきゃかまわないけど、俺は生きてる方が好きだね」くらいの、軽く乾いた感じが好き。あまりに軽すぎて気づきにくいが、話は反戦云々を通り越してエロスとタナトスの域にまで及ぶ。「肉体あっての精神」を最もよく知っているのは神父よりも外科医。 | [投票(12)] |
★4 | ゴスフォード・パーク(2001/英=米=独=伊) | 上流階級と姻戚という人格不在の空虚な絆の裏で、貴族たちは見栄と欲と猜疑を軸に集う。そんな欺瞞を目の当たりにしつつ、忠誠を建前に主人にぶら下がり、積極的卑屈さと職業意識で無言の連帯を組む従者たち。群像と殺人、すなわち関係性のつながりと破断の妙。 | [投票] |
★4 | ウエディング(1978/米) | 『ナッシュビル』が新たな価値と自分の場を見出そうともがく若者群像ならば、こちらは土台をシロアリに食い尽くされた屋敷のような倒壊寸前の価値にしがみつくプチブル群像。70年代、アメリカ。価値の混乱。
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★5 | ナッシュビル(1975/米) | 人物をさばく、話をさばく。さばかれた断片が見事な世界を構築する。天才技か、職人芸か。お見事とはこのことだ。 | [投票(3)] |
★3 | ギャンブラー(1971/米) | 酒、賭博、売春、阿片、銃撃、乗っ取り、そして、5ドルの女(ジュリー・クリスティ)。湿気の絶えない鉱山町の世事はみな生々しいのに、すべて男(ウォーレン・ベイティ)の夢中の出来事なのだ。不自然なまでに光学的に画面を汚す紗のような幻想雪がその証。
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★5 | 今宵、フィッツジェラルド劇場で(2006/米) | 終焉、すなわち死の映画でありながら湿っぽさなど微塵もなく、ステージという日常をあっ気らかんと楽しむ人生のベテランたち。青春が可能性と不安と焦燥の狭間を生きることだとしたら、老練とは想い出の中を経験に裏打ちされた自信とともに生き続けることなのだ。 [review] | [投票(9)] |
★2 | ザ・プレイヤー(1992/米) | 繰り出される楽屋落ち的お遊びが、唯一の物語の核であるはずのサスペンスの興をそぎ、グリフィン(ティム・ロビンス)の焦りや怯えが作品の軸として定まらないのが痛い。ハリウッドの「出鱈目と傲慢」を自嘲とし作中に取り込んでみたものの消化しきれず。 | [投票(1)] |
★4 | BIRD★SHT(1970/米) | 北京五輪のメイン会場は「鳥の巣」と呼ばれていたが、アストロドームはまさに「鳥籠」だ。すべての騒動はこの「鳥籠」に端を発し、糞を撒き散らしながら籠の外の世界を撹乱し、白い翼を羽ばたかせ籠の内で切なくも華々しく幕を閉じる。渇望と混沌の末の諦観宣言。 [review] | [投票(1)] |
★4 | ロング・グッドバイ(1973/米) | 猫をめぐるチンタラした「つかみ」が絶品。一見、無駄に感じる語りの冗長さが探偵の行動リズムとなって展開から目が離せなくなる。そして、有無を言わさぬ物語からの強烈なつき離し。寄り道が多そうでいて、感情より行動という簡潔さは堅持。正にハードボイルド。 | [投票(4)] |