[コメント] コンタクト(1997/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
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この映画の主題とその限界は、すべて冒頭のシークエンスに集約されていると思う。宇宙を見上げる少女の瞳のなかへ宇宙のすべてが収斂していくという、CGで構成されたシークエンスだ。これは宇宙に存在する時空(「宇宙」とは「時空」を意味する言葉らしい)は、じつはそれを見上げている意識の内にしか存在しないということを明快に示している(その映像的明快さでは感動的ですらある)。見上げられた外宇宙は、どこまでも自己の意識の内へと収斂していく。要するに、原理的に私達には本当の意味での「他者」は描けないのだ。描いてしまえばそれは描かれた他者の像になり下がり、本当の意味での「他者」では無くなってしまう。だが、そこには奇妙な逆説がある。「他者」は描けないのに、その存在を想像することだけは出来るのだ。(何故か「他者」という言葉が存在し、その言葉が何を示しているのかを私達は知っている。)
この映画はその意味で誠実だったと思う。それは「科学か、宗教か」ではなくて、(よく言われるが)哲学的な意味で真っ当だった。どうも神を口にするとすぐ宗教的な次元で考えられがちだが、そもこの世(宇宙)が存在していることへの驚きと畏れから「神」という言葉(その言葉を発語させる感受性)は生まれたのであって、宗教的な神は地上の現実に喘ぐ人間達の生きようとする意志の為にその真の座から引き摺り下ろされた偶像の代名詞でしかない。真の「神」は決して人間の顔をしていない。それはこの世が存在しているということ、まさにそのことだからだ。ヒロインが見出したのはその「神」の美しさ(「詩人をつれてくるべきだった」というセリフが泣かせる)と、それを共に見出す「他者」の可能性の手応えだ。だが「他者」は勿論のことヒロインにとって既知の面影としてしか現われることが出来ない。それを具体的な何者かとして描いてしまったならば、それは本当の意味での「他者」の尊厳を失ってしまうからだ。あるいは、宇宙の果てで最愛の近親者(の面影)に出会うという逆説は、見馴れた隣人こそが驚くべき他者(言ってみれば別個の宇宙)であることを表しているとも言えるかもしれない。(このようにしか描けないのは虚構で「他者」を描こうとする際の限界ではないだろうか。『惑星ソラリス』の絶望(?)もそこに起因していると思う。)
この映画はそのことに自覚的であったからこそ、このような描き方をしたのではなかろうか。その意味でもやはり冒頭のシークエンスはすべてを見事に語っていたと思う。その独我論的な限界は、それが自覚されることで超越されるのではないだろうか。
でも、そのまえに隣りの日本人のこともちゃんと理解して欲しいとも思えた。このテの映画であれはヒドイと思う。この映画も所詮はジャパニーズの需要を見込んだアメリカ映画ということだろうか。
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