[コメント] 世界の中心で、愛をさけぶ(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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桑畑三十郎を気取るわけではないが、オレは「かわいそうなお話」というのが嫌いだ。人が「かわいそうなお話」で流す涙は同情の涙で、それをアテにしたような了見のフィクションが嫌いなのだ。この映画は徹頭徹尾「かわいそうなお話」で押す映画ではなかったが、それでも作り手が同情の涙を狙った手つきはときに露骨すぎ、それが匂うたびに白けたのは事実だ。オレは作り手の思惑の外にいる。
たとえば長澤まさみは実に好演だったと思うものの、彼女が演じるアキというキャラクターは泣かせるためのフォーマットに押しこめられたためにずいぶんと魅力を失っているように見えた。白血病というベタネタへの突っ込みを封殺するためのエピソード、「ラジオで読まれたウソハガキを怒る」くだりがまさにそうで、あそこで怒るという反応はオレからするとありえないのだが、あのシーンはやがて来る白血病の告白への心の準備を観客にさせておく意味しかない。いきなり白血病の告白をしてもコントにしかならないから、事前に少し匂わせておいたのであろう。つまりは言い訳のためのシーンで、言い訳すること自体が悪いとは決して思わないが、そのためにあのアキという女の子が魅力を失ってしまうのは本末転倒だ。この映画にはそう感じる部分が多かった。
『世界の中心で、愛をさけぶ』が志は高くないにせよ「難病もの」という低い志のジャンル映画として、普通に製品として成立しているのは確かだと思う。そう、オレにはこの映画が「作品」とはどうしても思えない。「製品」という呼び名の方がはるかにしっくりくる。この映画の作り手の、細部への愛情のなさがそう思わせるのだ。細部のいいかげんさの中でも、オレが香川県の出身だから見えたところを挙げるなら、たとえば1986年に高松新空港はまだない。登場人物たちは一言も方言を喋らない。香川県に路面電車は存在しない。あそこはたぶん愛媛ロケなんだろうが、要は舞台となる土地なんてどうでもいいってことだ。それなりに郷愁を誘う最大公約数の「田舎」であればどこでもいいってことだ。更にいえば、香川が舞台の2時間を超える映画の中で登場人物が一度もうどんを食わないなんてありえない。そんなもんあいつら毎日うどん食ってるに決まってるんだ。そして細部への愛情がまるでないにもかかわらずそれなりに観られる出来に仕上がっているのは、これが作品ではなく製品だからだとしか思えないのだ。いっそ出来はもっといいかげんでいいから、オレは作品を観たかった。
どうでもいいことだが、長澤まさみの水着姿に目を奪われるべき海の場面で、少年役の森山未來がなんであんなパンクラスばりのハイブリッドボディなのか、オレは気になって仕方がなかった。あいつ帰宅部じゃなかったのか。船木の本でも読んだのだろうか。
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