[コメント] ゴジラ(1984/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
ゴジラ復活をいち早く知った東都日報の牧(田中建)が、その後ゴジラ撃退のキーパーソンとなる林田(夏木陽介)の研究室を訪ねたとき、次のような質問をぶつける。
「ご両親をゴジラで失ったそうですが、ゴジラの研究を始めた動機は憎しみとか復讐心からですか?」
これに対し、林田は、
「最初はね…しかし今は /
だいぶ後年になってから見直して、おやっ?と思った。カットがそこで不自然に途切れていたのである。この後には、劇場公開当時小学校二年だった自分が、最も印象深く感じたところの台詞が続くはずだった。それは以下のようなものだった。
「しかし今は、親しみすら感じている。決して人間の敵ではないという意味でね…ゴジラ自体は本能のままに行動するだけで決して攻撃的ではない。不幸なのは、巨大な体とパワーが時によって人間に恐ろしい結果をもたらしてしまうということなんだ。」
もう十年近くも前のことになるのだが、建て替えのための引っ越しをする際、倉庫を掃除していて、ある本が出てきた。秋田書店、MOVIEコミックスなる、当映画のカットを漫画上に連ねた子供向けのゴジラ本であった。どうやら、劇場公開当時、親が買ってくれたものらしい。その代物が出てきたおかげで、もう、うろ覚えになっていた上記の台詞を偶然取り戻すことが出来たのである。しかし、となると、逆に、自分が劇場版で聞いたと思ったこの台詞は、そこで、もうすでにカットされていたという可能性も出てくる。ゴジラが好きだと言っても、市販の関連本にまでは手を出す気がしない自分であるので、真相は確かめていない。まあ、この際、それ自体はどっちでもいい。重要なのは、劇場版であれ、ビデオ版であれ、東宝はなぜこの台詞をカットしたのかということだ。
この台詞、あった方がいいと思いませんか?
というよりも、この台詞、このゴジラの核心ではないかと思う。
50年前に破壊神たりえた怪獣が、ちょうど三十年後に帰ってきたとき、もうそこには自分が威を発揮できるような環境はなかった。そこにあった化け物は、もはやゴジラではなく、彼を迎え入れる側、高度経済成長期を経てバブルを迎え、肥大化し続ける日本という怪獣だったのだ。数年後チェルノブイリで明らかになる原子力の脅威も知らず、経済破綻の予感さえ忘却し続け、そこに君臨する楽観主義と不感症の怪獣。その彼のパワーは、後に泡と散ったとしても、その当時は確かに現実だった。そして、その彼にとっては、かつての破壊神も、しかし今は、親しみすら感じている。決して人間の敵ではないという意味でね…そう、言い切ってしまえるような対象でしかなかったのである。…ゴジラが弱かったのではない。現代の日本、現代の文明社会が歪に強すぎたのだ。
自分は今でも、この、そう水那岐さんの辛辣かつ適切な表現を借りるならば、もらい泣きしてもらう対象でしかないゴジラが、一番リアルに感じられてしまう。例えば、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃』での迫力は、過去を現在に甦らせるという意味で、むしろ神話のそれだった。『ゴジラVSビオランテ』の強さは、テレビゲームのボスキャラのそれだった。そして、初代ゴジラの強さは、あくまで過去のリアルである。
もちろん、娯楽映画としては、或いはファンの願望としては、強いゴジラ、それも金子ゴジラのように現実に対する何らかのアンチテーゼを持ち得た、強いゴジラがいいに決まっている。だが、その一方で、この力を失ったゴジラの現実、いわば現実のゴジラから目を逸らすわけにもいかないのではないか。
少なくとも、この映画は、後の子供向けに堕した平成シリーズと違い、作り手が真剣にゴジラという現象を現代に問い直した結果の産物である。笑っちゃう事に、クレジットにはアドバイザーで田原聡一郎の名前まである。つまり、とことんリアリズムに徹した結果、何もできないゴジラになってしまったのだ。だとすれば、娯楽映画としてではなく、或いは怪獣映画としてではなく、「ゴジラとは何か?ゴジラを屠った日本とは何だったのか?」映画として観るべきだと、自分は思う。そして、そのためには、例の台詞を是非戻して欲しいところだ。さすれば、この映画は、当時の日本人の核に対する認識の甘さも含めて、完全な80年代=バブルのリアリズムたりえるのだから。
当時の自分は、“出来ることなら、故郷へ帰してやりたい”、そう呟いた夏木陽介に100%シンクロして見ていた。子供心に、三原山に飲まれていったゴジラが悲しかったのだ。だが、その“悲しさ”は、年を取るに連れ、その余りにリアルな無力さ加減に対する“哀しさ”に変わっていった。彼は、その五年後にそこから這い出てくるのだが、しかし、その時のリアルな哀しさは相殺されなかった。這い出てきた彼を狂喜して迎えながらも、“嘘こけ!”と思ってしまった時点で、それは娯楽、かつてのリアルとは別物なのだと気づいたからである。
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誰に笑われようと、ガチンコでゴジラと向き合ってきた俺にとって、しかし、初代ゴジラはどんなに大事に思っていても、自分のゴジラではないような気がどこかでします。そして、望むと望まないとに関わらず、このゴジラこそ始まりなのです。しかし、その始まりは、始まりにしてすでに失われていたのです。そう、金子ゴジラが提示してくれた可能性に勇気づけられる一方で、心のどこかに、この三原山で失われたままのゴジラがいるのです。
ちなみに、例の本は発掘した時点ですでにぼろぼろでした。映画館に行きたくとも、一人ではいけない。ビデオがあったかどうかも微妙なその時代、ガキンチョの俺にとっては、その本が映画館の代わりだったのでしょう。その頃、一本一本の映画がどれほど大事だったかしれません。今よりも、ずっと映画という体験を大切にしていた気がします。その頃の俺が今の俺を見たら、きっとこう思うでしょう。“何様のつもりなのだ?”と。この映画も本当言うと、こんな風に屁理屈をこねて、汚すべきではなかった気がします。五点でも十点でもくれてやりたいところです。とはいえ、かつてこの映画の監督として真っ先に白羽の矢が立った本多猪四郎は、いみじくも言ったそうです。“今の日本にゴジラが現れる理由は何も見当たらない”と。そう、これが「ゴジラ対…」でもなく、「ゴジラVS…」でもなく、「大怪獣総攻撃」でもなく、「ゴジラ」である限りは、
…血を吐くような四点。
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