[コメント] キング・コング(2005/ニュージーランド=米)
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オリジナルにおける「狂気」。いや、狂気というよりは、悪夢に近いかもしれない。コミュニケーションが全く噛み合わない遣り取りを、延々と目の当たりにすることの悪夢。美女は人間として恐怖に慄き、コングはあくまでモンスターとして魅力的な「オモチャ」を弄ぶ。それぞれの立場での理屈は通っているのだが、それぞれの理屈は平行線を辿って決して交わらない。互いの声が決して届くことのない絶望。そしてオリジナルにおける悲痛は、モンスターとして至極当然の行いをしているにも関わらず、理不尽に死んでいかなければならないことに拠る、と思う。コングに邪気などあるワケなく、むしろある意味イノセントな存在なのだ。
そして長い年月を経て、今回コングが復活した。復活するにあたって、オリジナルにおける(特に主要な人間のキャラ造形の)曖昧だったり不可解だったりする部分を、かなり苦心を重ねて補強している。人間同士のストーリー部分においては、オリジナルよりも厚みが生まれていると思う。ただ、問題なのはコングの描写であり、その描写は(人間なら当然理解の及ぶハズのない)不可侵の領域に足を踏み入れてしまっている。しかし、あえてタブーを犯したことで、そこから何も得るものはなかったのだろうか。
個人的にはある、と思う。現代において、また新たなカタチでコングの物語が生き延びるカギが、そこにはあると思う。特筆すべきは、コングの表情の変遷。ただ恐怖でしかなかったその顔に徐々にニュアンスが生まれ、時にそのユーモラスな表情で、次第にこちらの恐怖を薄めていく。そして最期のコングの足掻きを経ていまわの際、ついにコングの顔に人間のそれと変わらない表情が生まれてきてしまっているのだ。これは非常に残酷な物語だと思う。「美しい」という言葉を、その他の様々な感情をも、心を込めて伝えようとするアン。しかし、人間の心が注ぎ込まれたがために、結果コングは「悲しみ」という感情と共に死んでいかなければならないのだ。愛するがあまりに己の側に引き寄せようとした、人間の傲慢な性が生み出した悲劇ではなかろうか。もはや言葉を失うしかない。
しかし・・・それにしても、何とも惜しいと思うのは、そのカギとは相容れない部分が残されていること。まずは森の中でのコングとアンの交流。夕日のシーンは印象的ながらも、それにしても馴れ合い方が時期尚早。傷つけようとしてもどうしても傷つけることができない、そのジレンマの理由が分からないままただコングは苛立つ・・・位の描き方で充分かと思う。それと、新旧コング共通してどうしても違和感を感じるのは、「美女と野獣」という文句。あの話は野獣が美しい人間だったことに意味のある話で、コングは過去も未来もコングでしかないのだ。別に美醜の話ではないし、コングは醜男ではないのだ。それが齟齬の原因となって、作品全体が下手なセンチメンタルに流されかねないのだ。この物語の最大のウィークポイントだと思う。もう一つ加えると、クライマックス後のアンとドリスコルの抱擁も余計に思える。アンが人間界に降りていくことがそんな簡単なことではないはずで、長い懊悩の末に己を知り、自分のその足で下界に降りることに大きな意味があるはずだから。
ともあれ、物語のことばかり書いてしまったが、いつもの監督らしい気迫のこもったスペクタクル。バーチャルと断りを入れた上でただCGでなぞった類のものでは当然なく、「妄想だろうが悪夢だろうが、トコトン付き合って再現してやる!オレに再現できないものなどない!!」、みたいな気概がヒシヒシと伝わってくる。ことに今回は、生理にまで訴えかけるような効果音が素晴らしかった。その本気っぷりは、(言うまでもないけど)コングへの愛情を如実に表している。そして愛するがあまりに、監督もコングを手の中に入れてみたかったのかもしれない。それがコングを残酷な最期へ追い遣るハメになることを、知ってか知らずか・・・。
(2005/12/29)
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