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[コメント] デルス・ウザーラ(1975/露)

そこに生活する者を“清浄なる者”と仮定するなら、そこを探検する者は必然的に“不浄なる者”という位置づけとなる。交わってはならぬ者同士の禁断の恋が、清浄の地の掟により、悲恋に変えられる。そんな一瞬、一瞬に身震いを覚える。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 不浄なる者=アルセーニエフ(カピタン)は、清浄なる者=デルスの清浄の地に適応した能力、感性、思想それら全てに惹かれ、くわえて、幾度も命を助けられたことで、崇拝に近い友情を感じるようになる。一方、デルスの方がカピタンに感じた友情は、それとは別物だった。デルスにしてみればカピタンから得るものは何も無かった。だがしかし、カピタンは自分を孤独から解放してくれた。

 それはデルスにとって麻薬だった。野生の虎と同じ場所に生きる者にとって、孤独を保ち感性を研ぎ澄まし続けることは生き延びるための絶対条件。その孤独から開放された瞬間から、彼はその場所の主たる精霊に目を付けられていたということになる。

 不浄なる者を一つ洗い落としてやるたびに度に、清浄なる者は一つ汚れて行く。

 第一部、アルセーニエフの目的たる湖の調査に当たり、デルスは嫌な予感を感じながら、しかし、“カピタンの言うとおりにする”と言って清浄なる者としての判断を怠り不浄なる者の判断に付き従ってしまう。これは、いわば、デルスのその地への背信。大地は猛り、不浄なる者を殺そうとするが、清浄なる者はあろうことか不浄なる者を助けてしまう。その後の夕日は、怒りに満ち、真っ赤に晴れ上がっていた。

 第二部、不浄への思いをすでに断ち切れなくなっていたデルスに対し、清浄の地は執拗な攻撃を繰り返す。デルスは自分が何の過ちにより、虎に追われるのかがわからない。自覚できないが故に、徐々に、徐々にその地に生きる者としての資格を剥奪されて行く姿が痛々しい。そして、牙をもがれた清浄なる者を、今度は不浄なる者が助けようとする。だが、救済は麻酔でしかなかった。

 第三部、(は無いのですが、街に出てからを俺は勝手にそう呼んでます。)不浄なる者の麻酔により、清浄なる者としての感覚が失われて行く恐怖に、デルスは悶える。耐えられなくなるのは、時間の問題だった。それを理解したアルセーニエフは、その愛ゆえに、最後の最後でデルスを決定的に汚す。清浄に帰らんとする者に対し、不浄の力を施したのだ。清浄の地はその不浄なる者の施し故にデルスの帰還を拒絶する。…不浄なる者の愛がついに清浄なる者を死に追いやってしまったのだ。

 奇妙なことだが、いつも見終えた後になって、これが黒澤映画だったということを思い出し、その事実に当惑する。黒澤監督は純粋で純朴であり続けたが、それはあくまで不浄なる者の世界の中での話しだった。この作品を観る限り、やはり、黒澤監督は僕らがいるこの世界の地平線にたどり着いてしまっていたのだろう。『まあだだよ』で帰ってくるまで、黒澤監督はこのアルセーニエフが愛ゆえにデルスを殺した地平線にとどまり、こちらを省みることなく苦悩し続けていた…そんな気がする。

 そんな監督の苦悩には、モビー・ディックにおけるハーマン・メルビルに通じるものさえ感じるし、純然たる作家の偉大な苦悩であると言い切りたい。しかし、キャプテン・エイハブがその狂気を海から陸に持ち込むことが無かったように、地平線における苦悩は地平線にとどめてこそだった。『影武者』や『』には、地平線上にとどめられるべきものが人垣に持ち込まれた際の歪な化学変化が起きてしまっていたような気がする。

 後期におけるマストな傑作は、『影武者』でも『』でもない。地平線上の苦悩があくまで地平線上で問われた、この『デルス・ウザーラ』である。

(評価:★5)

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