[コメント] チェ 39歳 別れの手紙(2008/米=仏=スペイン)
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これを描きたかったがゆえのPART1であり、2部作構成であり、ドキュメンタリタッチなのだった、と思う。
それはもちろん「キューバの成功」と「ボリビアの失敗」の明暗を分けたものに迫ることなのだが、事由を大局的に分析して見せるのではなく、そこに居合わせた者たちが目にした、もともとは明でも暗でもないものが、次第に「明」に、または「暗」に成っていこうとする、それぞれの「流れ」の体験を味わわさせることと、「流れ」に対し踏みとどまろうとする意志を描こうとしたものだと思う。ゲバラの生涯の、歴史的な解釈でなく、意志を持って世界に対向した一人の人間の体験を味わわさせることを目的としたものなのだと思う。
その場で起きている「人々を取り巻くもの」を、体験的に描くためにドキュメンタリタッチは最適であり、2部作に分けて、PART1とPART2を同等のタッチで順序だてて描くことは、現実に生きている人間は誰もその先の結果をわかって行動などしていない、勝つも負けるもわからないで闘っているという正しい体験を味わわせるためである。
歴史(結果)から振り返って見てしまうと、明暗を分けていったものは、資金援助の有無とか、先住民の排他意識の差とか、あるいはゲバラの行き過ぎた理想主義にあるとか、そういう話にならざるを得ない。でも「そこで起きていた事実はそうではない」のだと思う。そんなことはわかった上で始めた闘いであり、その時の勝算はわからなかったのだ。もしこの戦闘に勝利したとしたら、「資金援助の有無」も、「先住民の排他意識の差」も、「ゲバラの行き過ぎた理想主義」も、それらの事実があったとしても、大勢に影響しなかったもの、無かったに等しいものとなったはずなのだ。勝つか負けるかで、そこで起きた「事実」は異なってくる。キューバでの闘いに生きた人も、ボリビアでの闘いに生きた人も、歴史の振り返りを引き受けて闘ってなどいない。ただただ淡々と事実を追う描写の仕方は、その時その場に生きた人の体感を味わうことに功を奏している。また、成功例と失敗例の2部作であることで、「そこに生きていた人は後世の人ほど、キューバとボリビアの明暗を分かつものを確信していない」ということが感じられるのだ。
「今」を生きる人間とはいつだって「先のことはわからない」そんなふうに生きているはずである。だから希望もいだくし、そういう立ち位置で自分と世界を思う。「理想を描く」とは、自分と世界のより良きあり方の考察だから、ある人が「追い求める理想」を正しく描くことは、歴史的な振り返りを排し、その時を生きている体験から描かねばならない。ということこそ、この作品は目指したのではないだろうか。
私は前作のコメントで、本作においてよりゲバラの内面に踏み込んで行ければ評価したい、と書いて、今回5点にしたのは、つまりゲバラの内面に踏み込めたと思えたからである。自壊するボリビア革命軍とゲバラに迫る終盤のドラマにとても感情移入できたのだ。
それは、例えて言えば、エースだけが強い野球チームで、頼みのエースが打たれだした時、他のメンバーたちが「今日はダメかも」と思い始めているな、と、いうことを試合を諦めていない「エースが思っている」という構図に近い。時折ゲバラの目線と思われる、木々の梢が空の上で交差する絵がはさまれる。そして梢のざわめく音、虫の声が立ち上ってくる。それはみなが諦めだしたことを実感し、マウンドで球場全体を振り仰ぎ、スタンドの歓声が聞こえ出して、息をついたエースの目線そのものだ。同じ山の中の描写でも、PART2のほうが自然音のSEが耳につくような気がするのは、もしそうだとすればそれは主人公の心象に近づけようという意図の現われのように思う。
勝ち目を見限って仲間が離脱していく状況はゲバラの目線なのだ。PART1はただただ淡々と進んでいくだけで、同じようにPART2も始まっていくのだが、次第に周囲の(崩れていく)流れが自覚できるような演出がされていくのは、相対的にゲバラの目線にシフトされていくからだ。だから、ラストの森でじわじわ包囲されていき、仲間が撃たれちりじりになりながら、敗走するゲバラは「なぜだ、なぜだ」と言っているように見えた。それでも最後まで希望を捨てまいとする意志が私には見えた。私は頼みのエースではないが、草野球プレーヤーであることで、つと前述のような体験談に触れる機会は多い。たまたま同調する下地がありそういう思いに至ったのかも知れない。それにしても岩を背にしているゲバラに背後から兵がせまってくるシーンはただならぬ緊迫感だった。終盤ゲバラの視線を垣間見させてきた演出の効果だと思う。
われわれは、なぜ理想を思い描くのか? それは、われわれは先のことはわからずに今を生きているからだ。だから希望をいだくのだ。だが、周りをとりまく流れに気づくと、次第にその未来の可能性を疑うようになる。やがてそれに知らず知らずに呑み込まれる。野球と同様「そう思ってから」が負けの始まりなので、本当はどこまでもあきらめないことが重要なのだ。「最後まで希望を捨てるな」とはよく言われる台詞だが、本当のところ人間どこまで希望をいだき続けられるもんなのだろうか? 理想をどこまで追いつづけることができるのか? 作り手が、この作品で「意志を持って世界に対向した一人の人間の体験を味わわさせること」を目的としたのだと思った最たる根拠は、そのラストシーンにある。なぜならゲバラを処刑しようとする銃口は観客に向けられたからだ。「あなたの理想はどこまでのものか?」、と。例え失敗であっても、結果を考えて分別くさく振舞うより、土を舐め視界が霞んでいくその間際まで、理想を追い求める生き方は良いではないか、と。
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