[コメント] ラ・ラ・ランド(2016/米)
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この開巻ミュージカル・シークェンスに涙せずにおれないのは、まず画面の隅々、奥の奥まで緻密にデザインされているにもかかわらず、それがこのシーンに生きる無数の被写体たちにとって圧制とはならず、身体の衝動に任せたアクションの自由が奪われていない(と錯覚できる)点だ。したがって、ここで参照として挙げるに適当なのは、おそらく一九五〇年代以前のハリウッド・ミュージカルの諸作よりも、たとえばアラン・パーカー『フェーム』の“Hot Lunch Jam”であり、山本寛『私の優しくない先輩』の「MajiでKoiする5秒前」だろう。被写体が際限を知らずに増殖するのもひたすら感動的で、トラック荷台のリヤドアが開け放たれて楽隊が登場するに至ってはスクリーンを正視するのも困難なほど瞳が水分で溢れてしまう。
しかしながら、本篇の演出に対して諸手を挙げて喝采を送るのは難しい。通俗的に云って、ここにはエマ・ストーンとライアン・ゴズリングを除いて「血の通った」キャラクタが存在しない。これは何も脚本上の手続きのみを指して云うのではない。本篇には絡まない冒頭の“Another Day of Sun”の人々はただ歌い踊るだけで、ドラマを醸成するような背景も履歴も与えられていないが、それでも彼らは生きている、血が通っている、と思える。それはひとえに彼らの身体性が、表情が、画面上で尊重されているためにほかならない。
またストーンとゴズリングにしても、確かに彼らは魅力的だが、それはふたりの優れたポテンシャルのゆえであって、ここにおいて演出が果たした仕事はほとんどないように見受けられる。このように一、二名の主人公の物語と造型にのみもっぱら興味が注がれる近視眼的な単線演出は、民主的ミュージカルで幕を上げた『ラ・ラ・ランド』にはとても相応しからぬものに思えるが、『セッション』も鑑みたとき、それがチャゼルの強みとなる場面も少なくないことは認めざるをえない。
ラストの「回想」は、その仕掛けの周到さにかけてギデンズ・コー『あの頃、君を追いかけた』に後れを取るだろう。
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