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[コメント] コレクター(1965/英=米)

映画が省略した主人公が「コレクター」になるメタモルフォーゼ→
muffler&silencer[消音装置]

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







注意:原作のネタバレもあり

最近この作品のジョン・ファウルズによる原作を読むきっかけがあって、読後、ついでにこの映画も10数年ぶりに再見してみた。

2000年の十大犯罪事件のひとつに新潟の女性監禁事件を挙げる方は多いだろうし、あのニュース報道を見聞してこの映画を思い出された方も少なくないだろう。

原作の読者にしろ、映画の観客にしろ、様々な批評や感想を読むと、主人公ファーディナンドの女性ミランダを監禁する行動が、何かしら普遍的な成人男性のファンタジーであるように語られることが多い。しかし、少なくとも小説を読むと、男が捕えた女に何度も警告するのだが、彼の欲望はそういったマルキ・ド・サドの『ソドムの百二十日』的な、本能と認定しても差し支えのない性的欲望・支配欲だけから成立するものではないと、僕は見る。

「ファーディナンドがミランダに望んだものは何か?」 ―ミランダにとっても、読者・観客にとっても、そこがこの物語の大きな謎のひとつだろう。映画では、いくつかのこの手がかりとなるようなエピソードや、ファーディナンドのバックグラウンド、内的独白を省略してあるので、より彼をミステリアスな存在にし、それがゆえに、より一層の恐怖感を演出している。(もし、意図的にそうしたのならば、だが。)

彼は、誘拐当初「自分のことを<知って>ほしい」と告げ、さらにその<知る>という先にある<愛>を要求する。そこには、彼自身はすでにミランダのことを<知り>かつ<愛している>という前提がある。ただし、その彼女に関する知識は、「ミランダ」という人間を単にデーターベース化した上での「情報」による知識であり、彼の愛は、それのみに基づいた自己完結的なもの。いわゆる「対話」を介して生まれ得たものではない。

ファーディナンドが、その生い立ちから持つ、社会に対する孤立感や疎外感が(映画では、職場での同僚によるイタズラのカットだけで見せる。巧い!)、対話への不信感と<否定>、また同時に、それがゆえに生じる対話への飢餓感が、さらに屈折した<肯定>を生み出す。そこで、ミランダを忌むべき社会から隔離し、自分だけの世界に閉じ込め、その対話が成功する可能性を高めたかったのではないだろうか。

ところが、だ。現実にミランダという生身の人間と対峙した時、彼の情報に基づく愛はことごとく裏切り続けられる。それは、自閉的コミュニケーションから発生した感情なのだから当然の結果なのだが、彼は、対話の失敗を、ミランダだけの責任に負わせ、段々と彼自身が何を望んでいるのかわからなくなり、彼女がお荷物になってくるが、解放できないというジレンマに陥る。この辺りの過程は、映画は省略しているが、あのピカソ談義に集約したのは秀逸だ。(つまり、ここで、ファーディナンドは「ピカソ」との生きた対話の可能性を否定する。)

そして、ミランダがファーディナンドに対し、性的関係を結ぼうとした時、二人の亀裂は決定的なものとなる。いわゆる生の根源的な営み、最も直接的対話であるセックスの否定、そこにファーディナンドの精神的病理の根幹がある。それはつまり、恒常的に変化する<生きている>ものへの恐怖感と嫌悪感があるからだ。

当時の規制なら仕方ないが、映画が省いた原作の最も重要なシーンは、ファーディナンドが、ミランダ自身ではなく、ミランダの「写真」へと次第に興味が移行するところだ。ピカソ談義でも彼女に「絵は写真じゃないんだから」と言われ「写真は嘘をつかない!」と激昂するが、美しいと感じたその瞬間だけを切り出した、<死>んだミランダの写真、移り気で罵声を浴びせる生きた彼女よりも、自分の空想の中で思い通りの対話をしてくれる彼女の写真に魅せられるようになるがゆえの叫びである。

ミランダの死後、もっと「思い通りに育てられる女性を」と<真のコレクター>になる過程もそういう心理背景があってこそだろう(勿論、その要素・萌芽を持ち合わせた上)。映画では、元からコレクターだったように見える。原作ではファーディナンドは、ミランダの死後自殺しようとするのだが、彼女が監禁中「外の世界」のことについてばかりを綴った日記を読み、心変わりして、ハンティングにでかける。しかも、ミランダに似た女性を。映画ではファーディナンドが一方的に強く見えるが、原作では、二人の力関係はヤジロベエのように行ったり来たりする。そして、その不安定な力関係における不安感もまた、彼が最終的にラストのような結論に至る原因でもある。

また、これも時間的制約で仕方のないことだが、ミランダが日記に綴る自身の背景、「外の世界」とのこれまでの関係なども省略してある。それが不鮮明であるがゆえに、特に女性ならば、彼女の境遇に身を重ねやすいかもしれない。原作では、「ファーディナンドの内的独白」と「ミランダの日記」の二部構成、二人の視点による語りになっていて、そこではじめて読者は第三者的視点を確立させるようになっている。(まあ、この作品自体が巧い具合にその視点を確立しているわけだけど。)

ミランダは、<死><暴力><下級階層>の象徴であるファーディナンドと対照的に、<生><平和><プチブル>の象徴であり、ファーディナンドにスコップ(原作では斧)を叩き付けるのも、暴力に対する潜在的な嫌悪感から、うまく急所に命中させることができなかった、と日記に綴る。ここも見逃せない。

いろいろ書いたが、この映画、職人ウィリアム・ワイラーが見事にエンターテイメントとして消化した作品として、僕は原作とは別に支持する。

(ただ、ラストのミランダの死に方は、あれでは、彼女自身が唯一犯した暴力が原因で、ほとんど自業自得みたく見えるぞ。原作では、ファーディナンドに風邪をうつされてこじらせたのが原因だし、彼女はその唯一行使した(当然にも思える)暴力を後悔し、彼に謝るのだし。大体、小説では、順番もその「暴力行使の後悔」の次の手段として「性的関係」に訴えるしかない、というミランダの切迫感からになっている。)

追記1:

この作品が書かれた1960年代当時のイギリス社会における階級やイデオロギーなどの社会的軋轢は、現代では良くも悪くも崩壊し、徹底的な個人主義と情報偏重に基づく個人間の軋轢拡大へと移行した。一概には言えないし、言うべきではないが、「ファーディナンドの末裔」である我々の対話への飢餓感は歪に昇華され、新潟女性監禁事件を犯した「怪物」を生み出した一因もそこにあるのではないだろうか。

追記2:

本作と合わせつつ、クシシュトフ・キェシロフスキー監督の『愛に関する短いフィルム』と『デカローグ』の「ある愛に関する物語」を観て、「対話の可能性」について思いをめぐらせると興味深いと思う。

(評価:★4)

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