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[コメント] ランボー 最後の戦場(2008/米=独)

ランボー 最後の戦場』を見た。他愛が無いといえば他愛が無い映画だった。
kiona

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 この二十年、ただなまり続けただけだったのか、勿体つける割りには、現場を知らない白人女性に陳腐なヒューマニズムをかざされたぐらいで鼻の下を伸ばし、義友軍を気取ったあげく、それぞれ生活を抱えた哀れな傭兵たちを地獄に蹴落としてしまった。その際のご高説が涙もののとんちかんで――無駄に生きるな、熱く死ね!とは……。そのくせ御身はお一人様、高台にある機関銃の後ろにふんぞりかえり、意気揚々と撃ち放題だ。何が無くとも、とりあえず自分が切り込んでいった往年の勇姿はどこへやら。そんなで、勧善懲悪の免罪符の元、敵方のミャンマー政府軍を、『ブラックホーク・ダウン』のソマリア人同様、迫り来るゾンビ扱いで皆殺しにしたかと思えば、何ともすっきりした厚顔でご帰国である。どう考えても、そこにあんたの居場所は無い。

 ところで『ジョン・ランボー』という戦争映画を見た。一言で言って普通じゃない戦争映画だった。というか、今まで凄いと思った戦争映画は全部普通の戦争映画だったことが今回解った。

 『プラトーン』普通。『フルメタル・ジャケット』普通。『プライベート・ライアン』普通。『ブラックホーク・ダウン』普通。『ジョン・ランボー』――それは普通じゃない戦争映画。

 ランボーは支援団の女性、サラの何に突き動かされたのだろう。勿体つけた挙句、船には載せるが、その後もまだランボーは彼らに半信半疑だった。そして海賊に襲われ、案の定、震え上がる一同、女をよこせと迫られ、どうしていいか解らずだった癖に、ランボーが相手を皆殺しにすると、それで助かったにも関わらず、ランボーが手を下したことを批判する。批判しながら、恐ろしい目に会ってひるむ一同。だが、その中にあってサラだけが、ランボーに覚悟と決意を見せる。

 尻込みせずにはいられないような現実と残虐、恐怖と死を目の前にして、なお覚悟し、決意することができるか。手持ちのカードでコールできるか――そう、ランボーを突き動かしたのは、正義でも希望でも理想でもなく、ただ、その覚悟と決意ではなかったか。

 思えば、登場人物たちの誰もが、それぞれのコールを保留していた。海賊に襲われた直後の支援団と同じように、傭兵たちも政府軍に襲われた村を目の当たりにし、どうするべきか決めかねる。そして、それはランボーにしても、だ。

 “一人だけの軍隊”と謳われながら、その実、ランボーはずっと米軍とアメリカに囚われてきた。今も、一見、愛想を尽かし、隠居したように見えて、国に使い捨てられた敗北感に拘泥しながら生きている。あるいは紛争の情勢と手の施しようがない現実を前に、支援団に協力を求められても、武器を援助するのでなければ意味が無いといった、ありきたりな返答をする。

 自分の進退を決めるのに、目前の現実に鑑みるのは当たり前のことだ。人間なら誰しもそうだ。

 だが、そんなランボーが、サラから何故帰国しないと問われ、返答に窮してしまう。そう、自分のために生き延びたいなら、祖国から出なければいい、はなから軍隊や支援団なんかに入らなければいい。にもかかわらず、支援団も傭兵たちもそしてランボーもそこにいる。そこにいながら自分たちの決断を状況に左右されている。目前の現実に鑑みるのが当たり前のことだとしても、そこには大きな矛盾があるのだ。そして、それでもそこにいるなら、自分たちが支援団であり、兵であり続けるなら、結局のところ、何かのために、あるいは自分以外の誰かのために死ぬ覚悟と決意をするしか無いのだ。

 そうしてサラから自分の矛盾を突きつけられたランボーは立ち上がり、今度は自分が傭兵たちに彼らのコールを突きつける。

 これは非常に危険な思想を内在させた戦争映画である。昨今、アカデミー賞をにぎわせている多くの戦争映画が、兵隊さんたちを被害者の一人として描く。個人のメッセージを描写することを恐れ、状況ばかりを描き、冷静かつ公平な視座を装っては、結論を放棄して、我々全員で考えるべき問題ですよね、何が間違っていて何が正しいかなんて解らないですよね、として逃げていく。

 ところが、この『ジョン・ランボー』は、彼らを“やむなく駆り出された可愛そうな人々”とは描かない。“家族や祖国のためにここに来ましたが、まさかここがこんなに酷いところとは思いませんでした、戦争って本当に酷いですね”なんて結論は許さない。これはお前のコールなんだと言い放ち、「この戦争が正しいかどうかではなく、どういうものであるかはお前自身が決めろ――何を是とするか、自分が決めろ」と言い放ってしまった。

 そう考えると、クライマックス、怒涛の殺戮も、ランボーという一個のキャラクターを通して、一人の人間が戦争という巨大な怪物と対峙し、決断し、それを後戻りすることなく実行しきる絵として“的確”と思えてくる。そして、その後に残された、巨大な膿の塊のような死体の山、自分が殺めた人間たちの躯、怪物ではなく人間たちの躯、その中でただ戦慄して見つめあう、ランボー、サラ、生き残った人々――決めるのが自分なら、この膿も自分が呑み込んで生きていく、そんなメッセージのように、自分には思えた。

 ラスト、ランボーは、祖国を追い出されて以来、長く、本当に長く、保留していた自らのコールに蹴りを着け、誰の許可を請うでもなく、晴れやかに帰国していく。帰っていいのかどうかではなく、帰るのだ。

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 この映画に対する不安と嫌悪、自分にもよく理解できる。ただ、それだけでは切り捨てられない異様な力強さをこの映画に感じたなら、それを考えてみるのは無駄じゃないと思うのだ。

(評価:★5)

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