[コメント] 生きる(1952/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
物語内容やそこに込められたメッセージ性の素晴らしさや、脚本・演出・構成の天才的な三位一体がもたらす展開の豪壮なダイナミズムなどについては、他のコメンテータの方々がすでに秀逸なレビューを書いてくれているので、ここでは敢えて、シネスケ的にはちょっと邪道な唯物的批評を試みてみたいと思います。たぶん蓮實重彦なんかからの影響が露骨に見えるレビューになると思いますが、こんな見方もアリなんだということでご容赦ください。
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フィックスを多用し、移動ショットはおろかパンすらも殆どしない固定されたフレーム、そのなかに収まる、ぱっと見にはあくまでもさりげなさを装いつつもその実、見えない部分に至るまで細心の注意を払いひたすら綿密にディティールにこだわったいかにも黒澤的な画面作り。最近再見してみて改めて気づいたのは、この動かないフレームのなかで、人物が何かに「座る」ショットが異常に多いということだ。役所の課長席、病室、待合室、バー、クラブ、喫茶店、料亭、お葬式、それからブランコ──至るところに座るための場所が用意され、登場人物たちがそこにいろいろな格好で座る。とりわけ、ほとんど台詞らしい台詞をはかない主人公渡辺(志村喬)にあっては、他人にははかり知れぬ決意を「矮小さ」という装いのなかに秘めていちじるしく際立っていたあの「猫背歩き」と対をなすように、「座る」(あるいは席を立つ)というアクションにより失語を補うかのように演技し、物語を動かしている。
たとえば、陰で「ミイラ」と渾名されるにふさわしい無為な凡夫ぶりを、ただ課長席に座って判を押すだけというアクションにより体現していた彼は、放蕩に明け暮れ役所を無断欠勤し続けていたとき、不在(席を立つこと)によって何かただならぬ事態が彼の周辺で起きているのであろうことを他の職員に知らしめていたし、病院の待合室でお節介な病人が講釈する胃癌に冒された人間の身体的徴候が、あまりに自分の心身状態と重なっていることに気づいたとき、その声から逃れるように何度も席を動くことにより内面のショックを表現していた。有名なブランコのシーンも、ただそこに座って絶え間ない反復運動を繰り返すことによって成り立っていたことにも注意すべきだろう*1。
さらに面白いのは、椅子に座った二人の人物が対話しているシーンを撮る際に、人物のクローズアップの切り返しをほとんど使わず、テーブルをはさんで二人が正対している様子を真横から撮った固定ショットが多用される点だ──医師が渡辺に病名を宣告する病室のショット、渡辺とトヨ(小田切みき)がデートに使用した喫茶店や料亭のショット、渡辺が息子に無断欠勤のことを責められる食卓のショット、など。そして正対する二人の中央に位置するテーブルのさらに奥に、遠景となるオブジェクトが配置されている──病室では看護婦、渡辺とトヨが最初のデートで使用した喫茶店では雑誌を読む女性客、食卓では(記憶が曖昧だが)花瓶に生けられた花(だったと思う)、など──のも特徴的だ。
遠近法を律儀に踏襲した、映画的というよりもむしろ絵画的とも言えるこの動きのない構図は、しかしただ審美的な要請によってのみ作られたのではない。この構図が布石となってみごとな演出として昇華されるのが、渡辺がトヨに自分が癌であることを告白するあの有名なシーンである。生き甲斐を見つけることに目覚め、トヨの存在にその回答を求めようとした渡辺は、その心情の動きを、テーブルをはさんでトヨと正対することをやめ彼女の隣りに席を移動するというアクションにより表現する。また、遠景でとり行われている女学生たちの誕生会の喜びと生彩に満ちた祝福された空気が、不自然な関係がいまにも破綻しかけている二人の気まずい空気にはたらきかける。それまで厳密に守っていた「対面真横ショット」の構図がここで初めて崩され、そしてそれまでただ遠景として配置されていたものがここで初めて近景にはたらきかける。静と動のダイナミズム。縦(遠近)と横(平面)が垂直に交差し、階段を駆け下りる渡辺と駆け昇る女学生が祝福の歌に包まれながら平行に交差する。
このシーンが素晴らしいのは、明るさと陰鬱さ、死と誕生という抽象的な概念が対比されているからではなくて、その抽象性を唯物的な運動(映画的運動!)としてきっちりと画面に根づかせることに成功しているからだ。ここが、物語の重要な折り返し地点=切断点になっているのはいかにも示唆的。たとえば前半部の役所のシーンにおいては、遠景に配置された課長席(とそこに座るミイラ課長)は、近景に位置する職員たちにとっては何物をも意味しない文字通りただの風景にすぎなかったのが、後半部の葬儀のシーンにあっては渡辺の顔写真が遠景として、故人を不在のままに場の中心たらしめるほどまでになっている。さらに飛躍した極論を言うなら、ブランコのシーンに至っては、遠景はもはや遠景であることをやめ、左右に往復するブランコの反復運動を支える支点として、完全に近景に還元されている。「座る」ことによって物語が動き、遠景が近景に漸近し働きかける運動として映画が動く。『生きる』とはそういう映画なのだ。
もちろんこんな見方は深読み以外のなにものでもないし、黒澤自身がこんなことまで意図して周到な演出を試みたとはとても思えない。ただ、ある種の映画的才能に恵まれた人間は、えてして、本人の意図を離れたところで、きわめて豊富な細部に彩られたフィルムを撮ってしまうことがある。それが映画の魔術というものなのだろうと思う。私見を言えば黒澤明はそうした映画的才能には実はそれほど恵まれておらず、「傑作」は多く撮っていてもなかなか「名作」の少ない映画作家なのだが、そのなかでもこの映画は数少ない例外として、私の記憶に強く残るフィルムなのである*2。
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(*1)だからあのシーンで渡辺が口ずさむ「ゴンドラの唄」は、誤解を恐れず極論してしまえばお涙頂戴的な蛇足であるとも言える。この黒澤的あざとさは、映画がただ映画のみで屹立する過酷さに耐えられず、そこに何か過剰な装飾と意味づけをほどこさずにはいられない彼の「弱さ」でもあるだろう。もちろん、そんな「弱さ」こそが彼の愛すべき点だと思うし、また個人的にはあのシーンもあの唄も私は大好きなのだけれども。
(*2)たとえば『用心棒』や『隠し砦の三悪人』は傑作として立派な出来だが、決して名作にはなれない。『七人の侍』も実は傑作であって名作ではないと思う。ちなみに個人的に名作だと思えるのは『生きる』『羅生門』の二作品。
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[021101] 池袋新文芸坐にて再見(『わが青春に悔なし』と2本立て)
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