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[コメント] 空気人形(2009/日)

フワフワとした肌触りの観念論として一本通してしまっているのはこれはこれで凄いかも。
おーい粗茶

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







うつろな心をを埋めようとしている人々がたくさん出てきて、そこに心がゼロベースの人形が突然心をもって、身の周りの可愛いいものや周囲の人々との交換(交流)を繰り返しながら個を形成しようとしていく。彼女が店先で見つけたおもちゃの指輪の美しさに惹かれるところや、純一とビデオ店で窓をはさみこむように拭いている時の他者とシンクロするという感覚の気づきは、人の原初の喜びを思い起こされるようで見ていて嬉しくなってくる。周囲の空洞人間たちも、人形ののぞみも外部の「もの」で自分を満たすことで自分の空虚を埋めていくという点では同じだが、人間たちは自己完結的に「物」で埋めようと他者から遠ざかっていくのに対し、出自が人形であるのぞみは人間に近づこうとするがゆえに「他者とのかかわり」を求めていくところが対照的だ。そこからさらに、自分が相手に与える、自分が誰かの役に立つ、という方向をとることで彼女は更にいきいきとした充足感を味わっていくかのようだった。これ悪くはないのだが、のぞみの心性に照らしていささか強引な誘導をシナリオで感じるのは、「私もあるとき誰かのための蚊だったろう あなたもあるとき 私のための風だったかもしれない」という吉野弘の詩で一気に飛躍させてしまうからだろう。

のぞみが抽象的な個から固有の個により近づくに連れ、誰かのためにはより具体的に純一のために向かうが、破局に終わってしまうのが残酷だ。「役に立つ」ものとして生まれた人形がやがて心を持ち、その求めるものの先が人の「役にたちたい」であった。誰かのための風であることを願うかのように、自分の身体を満たしていた空気をはき息をひきとったのぞみの骸は、過食症の女性に「きれい」と言われて終わる。最後は人としてではなく物として役に立ったという意味だろうか?

この突き放したような結末の意味するものに、のぞみの「何かが間違っていたのか?」という意図を汲み取るとしたら何だろう。監督がどこまで意図したものかわからないのだが、彼女にまだ不足していたものというのがあるとしたらそれは「母性的」なものではないかと言うことを言いたかったのではないかと思う。

この物語で徹底的に描かれていない人種は母親だ。「いってきます」「ただいま」を呼びかける相手。「いってらっしゃい」「おかえり」を言ってくれる人。のぞみにとっての他者とは、あくまでも自己が自己であるための存在だ。母親というのはそうではない、のぞみの他者との接し方はそれだけでは不足だということをここに含んでいるのではないだろうか? 劇中に出てくるその他大勢としての母親たちはみな彼女に対し一様に冷たい。公園で砂遊びにふける彼女には自分の子供たちといっしょに遊んでくれているようでもあったのに一顧だにしないし、赤ん坊をあやそうとすると暗に追い払おうとする。余程危なそうな人でなければもう少し愛想よくしても良さそうだし。これは自分が何者であるかなど普段考えの外におき、ただ子供に与えることだけを考える象徴としての母親が、しょせんは自分の存在理由のために他者の役にたっているかのようなのぞみに潜在的な忌避感を感じているかのように見せていると思うのは気のせいだろうか? 

のぞみは劇の終盤で自分の「生みの親」である人形師の元を訪れるのだが、彼が最初に言った言葉は「おかえり」であり、そして最後「いってらっしゃい」とのぞみを送り出す、劇中で唯一その台詞を発する存在だった。より高みにそういう立場があることが提示される。「いってきます」といってがんばって仕事をし、「ただいま」と言って疲れを癒される。皮肉にも秀雄にとってかつてののぞみはその役割を果たしていたのだ。作品は、自分のための利他ではなく、人のための利他であれ、などとまで言おうとはしていないと思うが、あえて心のある物がその心で「誰かの風でありたい」と願うことの難しさと価値を言おうとはしているのかな、とは思う。「バースデイ」へのこだわりも何かどこかで母的なこととリンクしそうでいてそうでもないし、ちょっと「なんとなく」で締めくくっている感はあるかな。

総合的に「個と外部」「本体と代用」のような観念論のアイデアフラッシュ(とっ散らかし)のような作品であり、これに物語を求めるのは見当はずれなのだと思うが、せっかくの心を持ったダッチワイフという設定であれば、もっと性的なファンタジーのほうのドラマを描いていく方向もあったように思うがこれは監督の志向なのだろう。純一が息を抜いたり吹き込んだりするというSEXの描写、正確にはビデオ店で最初に彼女を蘇生させるところの純一の抑えがたい官能的な喜びの場面こそが妙に生々しくリアル感がある。「見ないで」というドゥナの意識の薄れに抗いながら羞恥を見せる表情は完璧だ。天体や会話で部屋をうめつくしたい男や、メイド姿にしか欲情しない青年、過食症の女、事件と自分を結び付けたい婦人、そういう実際ありそうな設定のほうが何か空々しく感じるくらい、これこそはこの作品の中では事実だというふうに思えるのは、この場面に何か根源的・本質的なものがあるからだろう。へそから空気を吹き込むところが原作どおりで、その他の設定は監督の後づけらしいから、何かもともとひきつけられるものを持ったものと、悪い言い方をすれば小賢しい作り物の差が出てしまったのかも知れない。

人形としてのペ・ドゥナの演技がなければこの作品はありえなかったと思う。のぞみがこの作品世界の中で「どのくらい人形とわかるのか」どうかという、マンガならたやすくすりぬけられる抽象性を、実写でいながらうまく描写していると思う。秀雄といる時のまばたきも呼吸もとめて微動だにしないなんていうのも凄いが、前半言葉がわからない頃ののぞみの所作(間のとりかたや表情の作り方など)が秀逸で、彼女のその所作には同じ言語で思考していないようなそういう違和感を感じるのだ。じゃ素じゃないかってことになるが、後半で純一に「私はあなたののぞむことを何だってするよ」と言う頃には、まるで日本の女の子と変わらないのだから、これは演じ分けているのだと思うのだ。また、腕を破いて空気が抜けていくのぞみを見るや否や、純一が何の疑問も持たずにセ●テープを取りに行く場面は、そうあって欲しかったという観客の願望に応えつつ、「どのくらい人形とわかるのか」という設定のあいまいさを棚上げしてしまう見事な演出だったと思う。

のぞみが自分の手の甲にあてていた夜景の光を自ら発し、薄暮には杭のようにただ日の光にさらされるタワーマンションの表情で、投影されるもの投影するものというテーマを象徴してみせたりをはじめとするさびしげな東京の素描もいい。東京を散歩するというテーマの写真集(のおまけのVCDを見たのだが)で、趣味のカメラで東京を撮っていたペ・ドゥナ(なんと2眼レフ。かなりのマニアではないか?)もこういう風景の撮り方には興味を惹かれたのではないかな、と想像すると楽しい。

これほど脱いだりやったりする必然に溢れている素材ってなかなかないだろう。好きな女優さんの裸はみんな見てみたい気がするが、やはりこういうテーマにでも出会う機会がなければふつうは脱がないだろうし、この時期このテーマにペ・ドゥナと監督が出会った幸運に感謝します。美しいペ・ドゥナの裸が見られてとても嬉しい。もう『プライベートレッスン』はいらないかも。しかしガッツある女優さんだよなあ。

(評価:★4)

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