[コメント] アウトレイジ(2010/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
再三に渡るカンヌ不発のお茶をにごすように、エンタメであるとうそぶいていたように思うが、その実、非常に生真面目なジャンル映画になっている。総じて目新しさのない抗争劇と文脈的な必然を欠いた暴力描写、それらと反比例して貫禄が増してきた絵の美しさは、しかし、抗争劇とも惨殺シーンとも一向に相乗効果を産んでいない。かといって映画が破綻しているわけでもなく、むしろ腑に落ちる顛末で、それゆえ何の引っ掛かりももたらしてはくれない。淡々としながらもあまたの言い知れぬ孤独の情感をたたえていた『ソナチネ』の鋭利とは対極的な出来だ。
これが、作家が年を取るということなのかもしれない。
凡庸だがボーっと見れた前半に対して、見ていて暗雲が立ち込める思いがしたのは、大友=タケシが――彼だけが仁義を垣間見せ始めたくだりだ。ここに来て今さら、そんなヒロイズムをやる気なのか? 自分は、北野武のナルシズムを好いてきた人間だ。でも、ここでそれはいけない。それはもう腐臭でしかない――そう思った。
だから大友=タケシがマル暴に両手を差し出したときは救われた気がした。そうだよ、この凡庸なヤクザものが独自のアイデンティティを獲得するには、それしかないんだよ、そう思ったし、それは作家の年齢的な実感を正直に表象するものだし、北野武がまだ孤高たりえる唯一の落としどころだと、そう思えたんだ。でも、期待はラストで裏切られた。
ラスト、大友は逃れた先であるはずの刑務所で、かつて足蹴にした小物に殺される。因果応報ってヤツだ。
「あにきぃ、待ってたぜぃ?」
「きっ、木村かぁ?」
……あまりに情けない台詞と演技に落胆した。『3-4x』のころに、武はテレビドラマが多用する「その登場人物が誰かを観客に示すために、これみよがしに相手に名前を呼ばせる」台詞の不自然さを小バカにしていたのに、今やそれをやっている。だが、問題はそんなところではない。こんな「大物が逃げようとして小物に復讐されて終る」因果応報なんて腐るほど見てきた。そんな凡庸に結局は陥ったことに、俺は落胆した。
この映画はただのジャンルもので、このシーンは凡庸なヒロイズムであり、ナルシズムの産物でしかない。
自首の意味が、どこにあったのかを考えてほしい。大友=タケシは、そこで仁義をあきらめ、おめおめ生き延びることを選択した。だとすれば自首したことは、やくざとしての死にほかならない。俺は、それを描くための映画なのだと期待したのだ。
しかし、大友=タケシは、やくざに殺された。言い換えれば、やくざとして死ぬことができてしまった。そうして映画は、ジャンル映画として完結し、それ以外の何物でもなくなってしまった。
“やくざとしての死=仁義の死”を描くのであれば、大友をおめおめ生き長らえさせて、刑務所で見る影も無く老いさらばえさせなければならなかった。木村を出してもいい。小物から迫られて、おめおめ命乞いし、小物から「もう、てめえなんざタマとる価値もねえよ」とツバを吐きかけられ、コケにされながらも助かったと安堵する変わり果てた大友を描くべきだったと、俺はけっこうマジで本人に言いたい。
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