[コメント] こわれゆく女(1975/米)
10年ぶりぐらいに見直した。
最初にこの映画を見たのは、今はもうないACTミニシアターという変な映画館だった。靴を脱いで、座席のないカーペット敷きの部屋で三角座りをして見るようなところだった。
ビリビリした。メイベルが怖くて怖くて怖くて怖くて、とにかく重たくのしかかってくるような映画だった。「何度も見に来ている、なぜならこの映画が、この監督が大好きだから。」と上映前に隣で話していた見知らぬふたり組は、かなりヤバイ人なんじゃないかとさえ思った。
今日この映画を再見したのは、そのACTミニシアターがあった街に唯一残っていた最後の映画館でだった。明日からは、再開日未定の休館に入るという。思い出がたくさんつまっている小屋だったこともあり、繰り返し見たい映画ではなかったのだけれど、いてもたってもいられず出かけていった。
けれども、久しぶりに見た「こわれゆく女(メイベル)」は、ちっとも怖い人ではなくなっていた。ビリビリする緊張感はあいかわらずだったけれど、ただ愛しいばかりの痛々しい女にしか見えなかった。怖いどころか、なぜそのような行動にでてしまうのかがわかるような気さえした。
以前は気がつかなかった彼女と実母との確執や、実父と夫とのわだかまり、義理の母のダメさ加減や優しさまでもが、細かい伏線の数々からわかるようになっていた。そしてそれらの一つ一つは、なぜ彼女がああまでしてニックに、彼女が理想とする幸福に固執せざる得ないのかを、そっと示してくれているようにさえ感じられた。
メイベルの精一杯はこれからも続いて、ゆえにもがいて、もつれて、溺れて、もんどりうって、混乱という闇の中を這いずりまわらざる得ないのだろう。そしてこれからも「私が間違ってるの?」と問いかけては絶望し、あるいは希望をみいだし、疑念を抱いたり疑いもなく受け入れたりを繰りかえしてゆくのだろう。そして、相も変わらず自分をいたわったり追いつめたりしてゆくのだろう。
そして、彼女なりの方法で、ニックを、子どもたちを愛してゆくのだろう。また、ニックや子どもたちも彼らなりの方法で、メイベルを愛してゆくのだろう。
誰もが異常だからこそ、彼女の正常が際だつのだ。そして、誰もが正常だからこそ、彼女の異常が際だつのだ。正常と異常の境界などは、「自分たち」が、「家族」が決めればいいことで、それは、他の何者にも介入できないことなのだ。
そのようなことを考えているうちに、ふと、もの凄いことに気が付いた。私はすでに、この重く胃痛がしてくるような映画が、カサヴェテスが、癖になりはじめているらしい…。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (14 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。