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[コメント] 大いなる幻影(1999/日)

さあ、はじまり、はじまり、でも一体、何が?

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







バーのカウンターに背中を傾けるハル(武田真治)。その目の前で、恋人達は別れ話の真っ最中。すると、女から吐き捨てるように口にされる別れのことば。

「はやく消えて、どっかに消えて」

そこで場面は切り替わり、線路の架橋下(?)、ハルは自転車を走らせている。が、ハルは山積みのダンボールへと吸い込まれるように突っ込んでいく・・・。そこからまた、どこかの線路下へとシーンは変わり、今度は若者たちが、盗んだ金庫を鉄パイプで叩き壊して中の物を取り出そうとしている。それをぼ〜っと見つめるハル。その視線に若者たちは気づき、彼に向って言う。

「消えて、消えてちょうだい」

ハルという名前がスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』のHALから取られているのだろうということは想像に難くないし、2005年の近未来SF(?)メロドラマという設定から、レオス・カラックスの『汚れた血』を思い出さずにはいられない。それだけでも『大いなる幻影』が、つねに世界崩壊願望を映画に投射させてきた黒沢清(『カリスマ』『回路』)の、世界崩壊‘以後’の世界の話なのではないか、ということがわかる。また、2000年になってから動かなくなってしまったコピー機が、動かなくなってしまった‘以後’の時間(=歴史)を知らせてくれている。そして、「どうしてだれも何にもしないの?」という女の無気力なセリフだけがコピー機へ吸い込まれ、「動かなくなってしまった」世界で「何もしない」人は、屋上からふいに身を投げてしまう。おなじく「何もしない」人であるミチ(唯野未歩子)には、それを止めることなどできるわけがない。若者たちを見つめつづけるしかできないハルのように、ミチは茫然と立ち尽くすだけだ・・・。ハルとミチが見た砂浜に打ち上げられた骸骨が、海の向こうの「世界最終戦争」の徴なのだとしても、彼らはただ、「ここ」にいることしかできないのだ。

もちろん二人は、「何もしない」といっても、公園で風船をもてあそびながら、暇な夏休みのような動かない世界を徒然なるままにやり過ごそうとしたりする(たとえば『ソナチネ』の、砂浜のヤクザたちみたいに?)。重要なのは、二人の周りにある時間はただ刻一刻と流れている、ということなんだ。しかし、黒沢清は、そのただ流れていく時間を、前述のキューブリックの『アイズ・ワイド・シャット』のように性愛で解決しようとはしない。生殖作用を破壊してしまう薬を服用するハルとミチには、性愛=セックスさえも、このむなしい時間の経過を忘れさせてくれるモノではないのだから。

ミチは、このむなしい動かない世界から逃げ出そうと試み、飛行場へ向う(「ここではない、どこか」)。その飛行機の飛び去る姿は、まるでジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のエンディングのようだが、この映画ではそれさえも叶わない。「ここではない、どこか」を「ここ」として生きるしかないのだ。

そしてミチはハルに告げる。

「一緒じゃなきゃ、ダメなんだよ」。

そこには、二人が一緒にいるための「理由」も「必然」もない(だからハルは時々消えていく・・・?)。ゆえに、ミチの言葉はたしかに、あまりにもむなしく、とことん愚かしい。しかし、それでもなお、「一緒じゃなきゃ、ダメなんだよ」と告げること。この世界で「二人ぼっち」で居つづけるということ。人生において、そんなむなしくも愚かしい「恋」(=「大いなる幻影」)ほどに大事なものなんてあるわけないだろうというのは、不滅の真理に違いない。そして、そんなどうしようもない真実に気づいたときに、世界はハル(春)にミチ(満ち)ていくのだろうか・・・。

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (12 人)moot Santa Monica TOMIMORI[*] モノリス砥石[*] 浅草12階の幽霊[*] ことは[*] IN4MATION おーい粗茶[*] よちゃく minoru[*] crossage[*] ina

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