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[コメント] EUREKA(2000/日)

背中合わせのバス運転手とバスジャック犯。(かなり大幅な追記、レビューはラストに言及、2003.1.12)
グラント・リー・バッファロー

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







御しまい※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

<3時間37分は映画の上映時間としては長いが、世界を描くには短すぎる時間である。この時間にして青山真治は世界を描いた。(レビューはかなりネタバレ) >

<上映中ずっと冒頭に登場する利重剛演じるハイジャック犯の姿が頭に焼き付いていた。実際には彼の出演シーンは1分足らずだろう。だが、彼の抱える空虚感が、ハイジャック後の世界に影をおとしつづける。(兄妹の最初の様子など、ハイジャック前からその予兆はあるのだが)澤井と兄妹が言葉で心を通わすことはないし、彼等が社会に認められることはけしてない、そこにはすべてハイジャック犯の亡霊が存在した。それは当然、ハイジャック犯の呪いといった意味ではなく、1分だけ彼の身体を通して具体的な形で立ち現れ(立ち現れるといっても、彼の人物像は極めて希薄であるし、そうでなければならなかった)その後も亡霊として沢井と兄妹を包みこむ何かがこの作品を通して存在したという意味でである。

その何かとは何なのか、ずっとそれが気になっていた。梢によって犯人の名が呼ばれたとき、それが世界そのものであったことに気づいた(Eureka!)。それ以上は視野の狭い私にはまだ言葉にすることができない。ただ人間が他の人間とけっして心を通わすことができないという絶望的な空気(helpless?)が提示されるなかで、3人がバスの中で言葉を交わさず壁を叩き、お互いの存在を確認するシーンに救いを見出し、涙してしまうことは確かだ。>

(以上、初見時2001年に書いたコメントとレビュー)

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(年始に再見。できるだけ言葉にすべきというのが私の個人的なスタンスですので、悪あがきとは思いながらも、いただいた投票を取り消して追記させていただきます。)

はたして、この話が扱ったものはバスジャック事件によって受けた傷痕だったのだろうか。とはいっても、兄妹は事件前のときにとりわけ活発な子どもだったわけではない。表面上は沢井も兄妹も急激な変化を見せたわけではない。あの事件は確かに話の中心に存在した。ただその在り方というのは、いわゆるワイドショー的な世間の好奇とは異なった位相にある。幼少の頃、あさま山荘が鉄球で壊される映像を目の当たりにして敗北感のようなものが芽生えたという青山真治独自の、心象世界と一事件との関わり方の描写がそこにあったのではないか。

無差別に人に向け発砲していくなかで、自分が何者であるかを執拗に他者に問い続ける犯人、それは自身への問いかけでもあった。犯人の射殺後、パトカーの中で震え続ける沢井、それは事件自体への衝撃というよりも、犯人が露出させた心の闇は自己がもっているものと大きく異ならないことに気づいたからではないだろうか。ゆえに、彼は仕事を辞め、家庭を捨て、放浪の旅に出る。バスの外で背中合わせに立つバス運転手とバスジャック犯、彼らが似ているのは外見的な格好だけではなく、むしろその姿の類似性がお互いの内面の親近性を(映画特有の視覚的表現として)うかがわせた。

人間は社会生活を営んでいくなかで、支えとなる規範のようなものが存在する。それは法律であったり、会社や学校の規則であったり、尊敬する人や家族の生き方であったり、文学や芸術において示されたある種の美であったり、思想や宗教心や倫理観であったり、人によってさまざまな形をとる(青山がよく言及する「天皇制」はこのようなニュアンスなのだろうか)。逆に言えば、そうしたものに支えられることによって、人は心の安定を得ている。そうしたものの存在は、その人にとってあって当然なものなので、その存在に気づくことは案外少ない。

その当然にあるべき「中心」が無くなってしまっとき、何も助けになるものが無くなってしまったとき、人はどうなってしまうのか(これは多くの映画が今までに扱ってきたテーマであり、私が他のレビューで使用した「徘徊」や「さまよう」と言った単語は、知らず知らずのうちにこのようなテーマ性を感じていたからかもしれない)。いったん考えついたとしても、すぐに生活にまみれて忘れてしまうような剥き出しの自己の思考。常時が常時でなくなったとき、人はそうしたものと否応なしに向き合わされる。その極端な例が、人を殺すこと。「人を殺してはいけない」という戒律が社会の規律や思想によって与えられていたとするなら、その安全弁が消えてしまったとき、その問いへの明確な回答は失われてしまう。あのとき、沢井が震えていたのは、剥き出しの自分がバスジャック犯のような行動をおこなってしまうかもしれないという恐怖心ゆえだったのではないか。バスジャック事件そのものが心の闇を作り出したのではなく、バスジャック犯との邂逅により「中心」となるものが失われ、今まで生活のなかで抑えこんでいた剥き出しの自己が露出した。バスジャック事件はその契機として存在したのだ。それこそが、本作のとる心象世界と一事件との関わり合いであり、社会性の描写なのだろう。

多くの映画はその剥き出しの自己の姿を描くところで終わってしまったが、『桜桃の味』と本作はそこを出発点とした、思考の力によるそれ以降の冒険なのだと思う。「中心」が失われてしまったからといって、いつでも人は人を殺してしまうのか(自己を殺す自殺を含む)、常にすべてを台無しにしてしまうような破壊的な行動を繰り返してしまうのだろうか。「中心」がなくても、人が人らしく生きうるやり方だってあるのではないか。再び兄妹とともにバスに乗った沢井の旅は、こうした問いと向き合い、それと闘うことへの決意だった。だからこそ、「中心」が消えてしまった場所、あの事件の現場からリ・スタートすることに彼はこだわる。(それは『helpless』の現場に戻ることを拒否する秋彦とは対照的である。)

別に沢井が初めてその「旅」に出たわけではない。それは多くの先人たちが試みてきたことであり、なかには闘いに敗れる人もいた。そして、それ以上にこの旅が孕む危険は、新たな「中心」を創りあげてしまうこと。新たな「中心」が新たな拘束を産み、血の歴史を繰り返す。相手(敵対者)を殺すという解決を図ってきた、歴史上の全体主義国家、政治集団、宗教団体の存在。歴史の負の部分が影を落とす。沢井の「バス」もそういった方向に走り出してしまう危険性と常に背中合わせである。沢井の行動をエゴと批判し、旅に警鐘を鳴らす秋彦の存在は、「バス旅行」を神話のように美化させないための視点の投入であり、青山の(かろうじての)冷静さの現われなのかもしれない。

しかし、それでも沢井には強固な信念があった。あの事件後も彼の周りで人が死んでいく。これ以上誰かが殺されること、あるいは死んでいくことをおしまいにしたかった。とりわけ、自分とバスジャック犯が抱えていたものと共通の煩悶を抱き、剥き出しの自己をどうすることもできないでいたあの兄妹を助け出したかった。他の人間との関わり方を見るかぎり、(おそらくは彼自身が干渉されたくなかったゆえ)他者への干渉を遠慮していた沢井が初めておこなった他者への働きかけだった。秋彦の批判を無視していたわけではなく、そうした視点を一方で了解しながら、できるだけ「中心」を作り出さないように彼は努力する。バスの乗り降りを自由にし、バスに乗ること以外の行動を自由にする(そのためバスは常に霧散解消してしまう危険性も一方で内包する)。自分にどのような疑いをかけられても、何を言われたとしても怒らない沢井が唯一怒りを露わにした瞬間、それは誰かがバスに乗る可能性を拒否すること、一方/他方と人と人の間に変更のきかない区切りをつけてしまうことに対してだった。とはいえ、そうした視点をもつ秋彦をいったんバスから降ろしはしたが、再び彼が乗り込む可能性を否定したわけではなかった。(ただ秋彦が自分から再び乗ろうと思う可能性はきわめて少ないだろうから、現実的には「別離」であった。)

この話を現実の世界に引き留め、神話にしないための存在であった秋彦の存在がバスから消えてから、ストーリーは神話的な色彩を帯びることを避けられなくなった。ラスト周辺でおそらくバスの暴走は始まっていただろう。そもそもこの話の大半は、沢井個人の話が中心であり、肝心の兄妹の心象風景はそれほど生なましさをもって描かれていない時点で、見方によっては不当ともいえる「美化」がすでにおこなわれていた。しかし、それでも沢井が心の闇を抑えきれなくなった少年を押し留め、(拘束を伴わないような彼ができる精一杯の表現で)力強く生きろと訴えたこと。また(前回レビューの繰り返しになるが)少女が彼女の今までの人生に関わった人たちの名前を並列に呼んだこと。誰も死なずに誰もが生きていける世界が展望された瞬間、「中心」を失ってからもなお強くそして優しく生きていける可能性を目にし、強く心を揺り動かされたことは間違いない。暴走への危険性、また死の影(ひょっとしたらこの二つは地下で繋がっているのかもしれない)がちらつくなかで、ラストシーンで沢井と梢は確かに「世界」のあり方を発見した。ただし、本作を観る側は直接その「世界」を発見したわけではない。あくまで「世界」の発見を目撃したに留まる。長い徘徊のすえに、ようやく見出された一つの可能性、いつかどこかで青山真治が今度はその「世界」の在り様を少しでも見せてくれることを願わずにはいられない。それは身勝手なエゴとは知りつつも。(そもそもそれは自力で発見するものであったかもしれない。)

(評価:★5)

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このコメントを気に入った人達 (13 人)Ikkyū 若尾好き 赤目 Santa Monica ぽんしゅう[*] moot みそしる[*] muffler&silencer[消音装置][*] ジャイアント白田[*] Yasu[*] ろびんますく[*] 秦野さくら[*] Linus[*]

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