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[POV: a Point of View]
カメラマンは越境した 三つの名前を持つ男
倪夢東、賀蘭山、あるいは西本正

◆ブルース・リーの『ドラ道』の撮影監督は賀蘭山(ホー・ランシャン)という名の日本人である。彼は満映の養成所で学び、新東宝を経て、香港映画にカラーとシネスコを持ち込んだ! ◆A:新東宝・撮影助手時代、B:新東宝・撮影監督時代、C:香港・ショウブラ時代、D:香港・独立時代、E:その他。(本編クレジットにない作品も含む)
A★3四谷怪談(1956/日)助手時代最後の作品。
A★0肉体の門(1948/日)初めてクレジットに名前が載った作品らしい。
A★0銀座三四郎(1950/日)安本淳の助手として。
A★0暁の脱走(1950/日)三村明の助手として。助監督は岡本喜八だったらしい。
B★5東海道四谷怪談(1959/日)
B★4亡霊怪猫屋敷(1958/日)カメラマンの新人賞を『巨人と玩具』とで争ったそうだ。
B★0明治天皇と日露大戦争(1957/日)スタンダード版の撮影。
B★0憲兵と幽霊(1958/日)
C★5大酔侠(1966/香港) [comment]
C★4香港ノクターン(1966/香港)井上梅次監督を香港に紹介。その後何本かコンビを組みますが、ちょっともめたみたいです。 [comment]
D★4Mr.Boo! ギャンブル大将(1974/香港)クレジットなし。…と思っていたけど、最近シネスコの左右が切れていただけだったことに気付いた。
D★3死亡遊戯(1978/香港)半分だけ。クレジットなし。
D★3BRUCE LEE in G.O.D 死亡的遊戯(2000/日=香港)ということはつまり、これも一部撮っていたわけだ。
D★3最後のブルース・リー ドラゴンへの道(1972/香港)ローマの風景はリーを感動させたらしい!
D★0中国超人インフラマン(1975/香港)監督やることになっていたけれど、断ったらしい。愛弟子ワー・サンが監督。映画界引退作でもある。
E★4吼えろ! ドラゴン 起て! ジャガー(1970/香港)西本氏の一番弟子、ワー・サンカメラマン(のちに監督)。
E★3少林寺(1982/中国=香港)西本氏が中国で行った講演を元に作られた(本人談)、大陸初のアクション。
E★3霊幻道士(1985/香港)西本氏の弟子の一人、リッキー・リュウ監督。
E★0女衒(1987/日)ロケ地コーディネーターとしてがんばったとか、無駄になっちゃったとか。
E★0孔雀王(1988/日=香港)西本氏の弟子の一人、ラン・ナイチョイ監督。
◆1921年福岡生まれ。8歳の時に満州の大連へ移り、そこで少年時代を過ごす。 …◆41年に満映(満州映画協会)の養成所に第一期生として入社。43年(?)、日本映画社の映画撮影技術者養成所(のちに大日本映画協会 日本映画学校と改名)に留学。 …◆留学を終え、満映で撮影助手として活動するが、45年敗戦により満映は解散。46年に日本へ戻り、日映をへて、『人情紙風船』のカメラマンハリー・三村(三村明)の紹介で第三組合(のちの新東宝)に入る。 …◆57年のカラー・シネスコ最初期作品『明治天皇と日露大戦争』の”スタンダード版の”撮影を行い、それが認められて香港・ショウブラザーズ社ににカラーカメラマンとして派遣され、香港映画の第一回カラー作品『異國情鴛』を撮影する。この時、若杉光夫監督も同社にレンタルされた。 …◆58年帰国。中川信夫監督との『亡霊怪猫屋敷』、『東海道四谷怪談』などで再び注目を集め、ショウブラに引き抜かれることになった。 …◆二度目の香港で最初の映画、リー・ハンシャン監督の61年作品『楊貴妃』により、カンヌの高等技術委員会色彩撮影賞を受賞する。その後もリー・ハンシャン監督と組み、香港最初のシネスコ作品『武則天』、大ヒット作品『梁山伯と祝英台』などの撮影を行う。 …◆さらにその後は香港一のカメラマンとしてキン・フー監督や香港に呼ばれた井上梅次監督や中平康監督、そしてブルース・リーなどと組んで数々の作品を撮影した。 1997年、永眠。 …◆フィルメックスでの中川信夫監督特集を記念する意味も込めたPOV。参考:筑摩書房『香港への道─中川信夫からブルース・リーへ─』
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