[コメント] CASSHERN(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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今が2009年の2月。僕はこの5年間、ことあるごとに『CASSHERN』が好きで好きで仕方ないと言い続けてきた。僕が「名作の誕生だ!」と信じて疑わなかった公開初日、舞台挨拶後のロビーで紀里谷監督の手を握って「スゴい良かったです!」と興奮を伝えたあの日以降、世間の評価は笑ってしまうほどに下がり続け、監督も後のインタビューで「もう映画なんて撮らない!」とキレるほどの低評価ぶりに落ち着いた。そして今となっては「CASSHERN」のことなど誰も語りはしない。
だけどこの映画は何度観ても僕の脳みそを多幸感で満たしてくれる。世間的な悪評のほとんどが至極納得のいくものであるにも関わらず、ホントにこの映画が好きで好きで仕方がない。こういうのを偏愛っていうんだろうと思う。誰も欲しがりゃしないだろうから声を大にして言う。この映画は僕の映画だ。言ってやった。言ってやったよ。
PV畑でその才を見出された紀里谷和明は、今作のオファーを受けてまず初めにこう思ったことだろう。「宇多田のダンナとか呼ばれないためにも、どこに出しても恥ずかしくない、それでいて確実に自分の作品と呼べる映画を作ろう。自分が持っているビジュアルテクニックを総動員して、しかも重厚で真摯なテーマも折り込もう。誰にも文句を言わせない映画を撮るんだ」。そして彼は彼自身が思った通りの映画を作ったはずだ。恐らくは十二分に満足をしていたはずだ。問題はそれが「足し算」のみで構築され「引き算」が存在しなかったこと、そして監督自身にテーマを咀嚼しきれるだけの深い思慮が欠けていたってことだ。「CASSHERN」を褒める人、けなす人、その多くはこの部分を焦点に映画を語っている。「青臭い」「長ったらしい」「説教臭い」「本気は伝わる」。その全てがホントにおっしゃる通りの話だと思う。この映画は青臭くて長ったらしくて説教臭い本気の映画だ。そして僕はこの本気度に触れて興奮しているんだと思っていた。
ただ5年経ってふと気付いた。この辺りのことって、実は僕にとって割とどうでもいいことみたいだ。改めて考えるに僕がこの映画を好きな理由は、この映画が僕にとって「最高に気持ちいい映画だ」という一点のみにおいてだったんだ。この映画は死ぬほど気持ちがいい。むしろ気持ちいい瞬間しかない。ビジュアル先行でシチュエーションありきのシーン作り。アニメか何かで見たことがある戦闘パターンの実写再構築。終始陰鬱であり続ける全体の雰囲気。もうどれもこれもが最高に気持ちいい。この辺りは完全に感覚の話なので、恐らく共感は得られないと思う。
得られないと思いつつとりあえず例を挙げる。覚醒したキャシャーンが唐沢寿明とロボ軍団の前に姿を現すシーンだ。満月を背景にビルの屋上に立つキャシャーンの遠景から、カメラは一気に彼のアップへとズームインする。その瞬間、カメラの勢いでキャシャーンの髪が「ブワッ」となびくんだ。ハッキリ言ってヒドい。論理性も整合性もあったもんじゃない。だけど紀里谷監督はそれをやるんだ。何故なら「なびいた方が格好いいから」だ。そして僕はそれを観て「超カッチョいい!」と思うんだよ。飛行艇のデッキに立つ及川光博と研究所屋上に佇む唐沢寿明の一瞬の視線交錯も同じことだ。あそこでミッチーが飛行艇の外に立つ理由なんて何もない。風がうるさいから携帯で話すにはむしろ不向きだ。でもやるんだよ。その方がカッチョいいからというその一点だけでやるんだ。もう一つ言えばミッチーの「コード206だ!早くしろぉ!」もそう。そんなコードに大した意味などない。言いたいだけ。そしてそれらの空虚さの免罪符として物語は常に陰鬱であり続け、CGはキラキラとそのゴージャスさを醸し出そうとするんだ。こんなハッタリまみれの映画に於いて、テーマの本気さに何の意味があろうか。というよりむしろ、本当に紀里谷監督がやりたかったことは「ハッタリ」だったのか「テーマ」だったのかを考える必要さえある。
僕は思う。彼がやりたかったことは疑うべくもなく「ハッタリ」だ。もちろん「テーマ」だって大事だったに違いないけど、それは二番目の話だ。彼は宇多田のダンナであるという己のポジションを自覚した上で、己の持つ最大の才能=「新進気鋭のPV監督としてのビジュアルセンス」をあたかもそれ以上の壮大なものであるかのように見せようと腐心し、その結果として己の打ち出せる最大級のハッタリをブチかましてきたんだ。そして僕はそのハッタリの持つケレン味にバックリと取り込まれて今ここにいるんだ。何てことだ。
だから僕はこの映画の前半を観る時、そのテーマ性とかについては一切考えが及ばない。「軍部が動いているということです」とか「人間を、皆殺しにする」とか「チョーップ!キーック!母さんはどこだ!」とか思いながらその瞬間だけを存分に味わって時間を過ごしている。そしてその副作用で脳がすっかり溶けた状態のときに、初めて「うぅむ、人は何故戦うのでしょう」とか思ったりする。世の中気持ちいいばかりでは回らないのだから、少しは鬱々とした気分を味わうことも必要なんだ。それもまた気持ちがいいんだよ。だから最後がグダるのも気にしない。キャシャーンは巨大ロボの時計も止められずロボ大爆発、あげく親父を殺して彼女と心中、最後のセリフが「希望、それが俺とルナの子供だ」って、これじゃ提示された問題は一切解決してないし、もっと言えば真っ当な落とし所にさえ至っていない。だけどこの釈然としなさと快楽の対比が気持ちいいんだよ。紀里谷監督がこれを読んだらたぶんイヤな気分になると思うけど、これ間違ってないと思う。
アジアンゴージャスな世界観に、唐沢寿明や及川光博、そして何より街中を埋め尽くす大滝秀治などというこれまた最高の演者がそのポテンシャルをフルに発揮するシチュエーション。そんなお高い紙芝居のような世界で樋口真嗣フルパワーのアクションが展開されるなんて、それだけでもうこれ以上の快楽はない。例え伊勢谷友介や要潤の演技が力み過ぎの棒読みでも、この快感世界を揺るがすにはマイナスの力が小さ過ぎるというものだ。前述の「キャシャーンvsロボ軍団」のシーンなんて、僕たぶん死ぬまで楽しめる。そう思ってみればお話だって決して悪かないよ。唐沢とか可哀想じゃないか。
今年、紀里谷監督は5年ぶりの新作『GOEMON』で己の復権に挑む。まぁ上手くやれればいいねと思う。復権の必要を感じない僕とはあまり関係ない話だからだ。足し算しか知らない「CASSHERN」を、僕は引き算を使えないまま観た。そんな僕にとって、引き算を覚えた紀里谷作品はボリューム足らずになる気がする。そして今作が有するそのボリュームこそが、紀里谷監督の最大の“本気さの象徴”だとさえ思うんだ。むしろもっと足せ。溢れるくらいでも僕は完食できるぜ。
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