[コメント] 崖の上のポニョ(2008/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
たとえば『風の谷のナウシカ』に出てくる登場人物たちには、それぞれの立場や正義に則った熟慮と行動の一貫性があった。宮崎駿は思慮の足りない軽薄な人物・行動・物語を嫌う人だった。あるいは『となりのトトロ』に出てくる大人たちには、特に隣家のバアちゃんがそうだが、リアリティがあった。宮崎駿はリアリティの無い設定・世界観・人物を嫌う人だった。
しかし、これが『千と千尋の神隠し』の冒頭で一変する。千尋の父親は暴走運転し、母親は娘の心配を無視し、両者そろって豚になる。そして、物語は二人がそうであったことを何も問わず、変化も加えず、ただ放置する。自分には、この二人の描き方が非常に不可思議に思えた。
実は『千と千尋の神隠し』の登場人物たちがそれまでの作品と違うのは、湯屋の面々にしても同様だった。風の谷の人々とは真逆の俗物たち、そして欲望の塊たるカオナシ。でも、彼らの行動原理は俗物であるという点で明白で、描き方も鳥獣戯画的なものとして得心がいくものだった。
しかし、両親の暴走⇒ブタ化だけは、それでまとめきれない何かを感じた。それは「空ろ」としか言いようがないものだ。そして三年後、そんな浅薄な設定、ちぐはぐな世界観、リアリティも無い、一貫した行動原理の無い「空ろ」なキャラクターとアクションが跋扈する映画『ハウルの動く城』が登場してくる。
さて、今回である。まず、リサの暴走運転にまたかと戸惑う。津波が押し寄せる中、息子の危険も省みないスタントで、陸の孤島から海の孤島へなりかけている我が家へ帰らねばならない理由がどこにある? あまつさえ、その後のリサはポニョの出現に対して驚愕の状況認識能力を発揮し、ありえないことの連続をあっさり受け入れてしまう。リサばかりではない。老人たちも町民たちも共通して、とんでもない超自然現象が起きているのに驚かない、うろたえない、そして、いつの間にかそれを受け入れている。
そこには盆百の大人たる我々の狼狽が一切存在しない。その上、まるで夢の中に出てくる人物のように行動も心情も、前後との文脈、人物の履歴、周囲との関係や連続性を欠いて断片的かつ霞のように浮ついて見える。まして大人の観客の視点にはなりえない。かといって他に冷静な視座を持つキャラクターがいる訳でもないから、この映画は大人の観客にとっての入り口が見当たらない。感情移入して物語に乗っかりたいのに、どうにも座りが悪くて、上手くついていけない。
物語を綴れなくなっている以上に、人物を描けなくなっている。あるいは、人間が見えなくなっているのではないかと心配になった。
それと同時に世界観も、何か現実と夢が混在しているかのようなアヤフヤな印象だ。たとえば、波を形成する巨大魚たちや崖より遥かに高い波は、リサの目には映っていないように見えた。だが、『となりのトトロ』と同じく「大人には見えない」という明確な境界線があるのかと思って見ていると、リサはポニョを認識するし、老人ホームはフジモトに取り込まれるし、リサはいつの間にかグラン・ママと仲良くなっているしで、やはりこっちは取り残される。今回のを見ると、『千と千尋の神隠し』はまだ境界線のはっきりした映画だったということが解る。
ただ、あまりに取り止めがなくて印象に残ったシーンの一つもない『ハウルの動く城』に比べると、今回のはさほど嫌いになれない。
特にポニョが覚醒し、親父の結界をぶち破って再び海上へ飛び出していくくだりが好きだ。ポニョは変身する。『となりのトトロ』のメイそっくりな顔と喋り方だが、ワシャワシャ赤毛も性格もなんとも垢抜けた感じの人間の子供に。そして、吹けよ風、呼べよ嵐で人間界を叩き壊しながら、惚れた男の子に向かって波の上を疾走していく。ポニョはさながら女の子の心を持った怪獣だ。このシーンを見たら、正直言って、後は何がどうでもよくなってしまった。夏の海の悪夢と思えば、水没後の景色を眺めるのも悪くない。だってデボン紀の外骨格の巨大魚やトリロバイトやらがワラワラ泳いでいるのだ。子供のころの自分が見たらさぞゴキゲンだったに違いない。
また、宗介の父親の描写もまた中途半端なんだが、その投げやりさ加減を見ると、逆にここを機軸としたちゃんとしたストーリーが最初はあったのかなとも思う。遭難した父親の命とポニョが人間になれるかどうかが秤にかけられるような、そんな試練が宗助に課される予定だったんじゃないか、と。リサが強引に家に帰るのも「どうしても急いで夫と交信しなきゃならない理由があるから」だったら解るし、船の墓場(飛行機の墓場ってあったよね?)だって最後の試練だって、もうちょっとなんかあったに違いないのだ。あるいは「魚が人間になって自分の嫁になる」なんてすごく大きな「獲得」で、普通、物語の必然は主人公に大きな代価を支払わせるものだ。たとえば、父親が死ぬぐらいの…
でも、宮崎駿は「もう物語の定石に興味が無い」というようなことを言っていた。それについての賛否はともかく、とにかくポニョ以外どうでも良くなって、「人魚姫」のフォーマットがどんどん瓦解していったんだろう。
それでポニョだが、いやはや、この子が凄くてねえ。
思えば、クラリスもナウシカもシータもサツキも「見た目は女の子で精神は大人」だった。びっくりするような死語を使って表現すると、彼女たちは「貞淑の鑑」だった。恋に沸き立つ血潮など子宮の奥に眠らせたまま、恋などと言ってられないような一大事に向かい、その中で抑え切れなくなる想いに仄かに頬を赤らめるみたいな、駿氏はそういうのが好きなんだと思ってた。千尋でさえそうだった。しかし、ポニョは違う。宗介に一目惚れしたが最後、もう父親も周りも目に入らず、一直線である。駿氏はこういう…すごく誤解を恐れずに言うならば…現実的な欲求に生きる女の子、いや女の子の現実が嫌いなんだと思ってた。
五歳だからいいのかどうかは解らないが、どうもリサもそういう女の子だったような雰囲気があるし、グラン・ママの価値観もそういうものを肯定するような感じだ。駿氏が年食って変わったのか、実はそういう人なのか知らんが、ともかくひとたびそれを肯定しようと思ったら、他の全てをうっちゃり津波を起こしてデボン紀に回帰してまでやった挙句、それを五歳の男の子の喉元に突きつけて脅す結末といい、何が衰えようともその狂気性だけはビタ一褪せずに聳え立っている。これは細田守氏や原恵一氏ではいかんともしがたい領域だ。
というか、ある意味、幼児回帰していってるんじゃないか。
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