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[コメント] ピアニスト(2001/仏=オーストリア)

ミヒャエル・ハネケ監督による、現代人の「仮面の告白」。
muffler&silencer[消音装置]

こんな映画、今まで観たことない!

鑑賞直後は、極度の緊張感から解放された安堵感で、息も絶え絶えだった。正直、この『ピアニスト』、僕は"大嫌い"だ。この嫌悪感と共に感ずる、共感ではない共感は、イングマール・ベルイマン監督の『叫びとささやき』以来。まるで『叫びとささやき』が、映画におけるポストモダン的レアリズムの洗礼を受けたような感覚。

僕は、北野映画の流れを汲む、最近のヨーロッパの「間」のあるレアリズム的表現が苦手だ。たとえば、同じくカンヌで1999年度にグランプリを獲った、ブリュノ・デュモン監督の『ユマニテ』。「虚構の中の《現実》の暴露」、「歪曲された生生しさ」、「安易な表現としてのレアリズム」、こういった要素を一言で言えば、「あざとい」となる。

だが、このミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』は、そういった安直なレアリズム映画とは違う。勿論、それは女優イザベル・ユペールという存在を得たこともある。

ユペール扮するエリカの顔は、まさに「能面」である。表情がない。彼女の日常における、ストイックなピアノ教師という「仮面」を度々脱ぐときも、「能面」のままだ。だが、彼女の表情に、何か変化があるのではないかと、微細な変化も逃がすまいと、観客は息を呑んで見つめてしまう、そうした《力》が、ユペールの存在にはある。

そして、実際、たとえば、ブノワ・マジメル扮するワルターが初めてピアノの腕を披露したとき、たとえば、自分の生徒がワルターに優しくされて、リサイタルのリハーサルで緊張から解き放たれたのを見たとき、微妙に「能面」がゆがむのを、観客は目撃するのだ。

ユペールは、他にも、歯を磨くとき、手袋をはめるとき、男と擦れ違って肩が触れたとき、レッスンの休憩時間にランチを食べる背中、こうした日常的な行動・仕草に、エリカという人間を見事に表現する。

その中での極度の緊張感。エリカのストイシズムが、この『ピアニスト』の映画世界を窒息性のある緊迫感を生み出す。そして、そのピリピリした空気の中で、エリカの行動には、観客も、ワルターも、その予測をことごとく裏切り続けられる。だが、その「裏切り」は、決して、あざとくもなく、虚仮威しでもない。「共感ではない共感」を呼ぶ。エリカを通して、現代人である、自分の中にいる「エリカ」を見るのだ。

「整合こそ混乱を呼ぶ」とは、ルイス・ブニュエル監督作品『自由の幻想』のコメントにおける、bunqさんのことばだが、まさに言い得て妙である。もっとも《異常》なのは、《正常》の中の《正常》、《正常》に固執する《異常》なのである。

たとえば、ジョージ・A・ロメロ監督のホラーオムニバス映画『クリープショー』の最終話。極度の潔癖症である研究者が、異様に整然とした、密封された研究室で、ゴキブリの侵入に悩まされる話。あの研究室そのものが、現代人のカラダであると言っていい。あのゴキブリの涌く様こそが、現代人の欲望の表出であると言っていい。

《化学薬品》に耐性のできた、変異・奇形した、偽ることを知らない、凄烈で残虐なまでの欲望。その欲望にからみつく、人間としての残酷なまでの愛。だが、表情の見えない、虫のような顔。エリカの肉体は、その変異した欲望の鋳型である。空虚であって、空虚ではない。空虚が充満した鋳型なのだ。

虫のようなエリカの顔、能面、仮面が、ラストに「ガッ!」と壊れる。その壊れた顔こそが、人間である証。エリカの生き様は《狂気》ではない。著しく歪んではいるが、《狂気》ではない。断じて、ない。

エリカの仮面の告白、それに対するワルターと母(アニー・ジラルド)の応答、ここに《真実》を、僕は見た。映画に何を求めるのか、それを問いただされている気がする。だから★1や★2の評価も十分理解できる。

だが、この『ピアニスト』は凄い映画だ。これを作ったミヒャエル・ハネケは凄い監督だ。だからこそ、もう二度と観たくはない映画だ。

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注意:以下、ネタバレ

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映画を観て、微視的にいろいろ書きたいことはあったのだが、どうにもこうにもまとまらないので、断片的に列記したい。この映画にはいろいろな《記号》が散りばめてあるが、その解釈は、観る度に、誰かとこの映画について話す度に、様々な角度からなされることだろう。

●テレビ:ミヒャエル・ハネケ監督の作品でもうひとつ日本で公開されている『ファニーゲーム』。ここにもテレビ(正確に言うと、「テレビの音」)が象徴的に使われている。僕は、エリカの母親を見て、ダーレン・アロノフスキー監督の『レクイエム・フォー・ドリーム』の母親を思い出した。絶え間なく日常を侵食するテレビの消費財的音。これこそ暴力的である。

●自傷行為:エリカが性器を剃刀で傷付けるシーン。これは、かなり謎だった。一緒に観た友人(女性)とも、いろいろ話したが、どうにもこうにも納得できる解釈はできなかった。(僕の突飛な解釈:実は、エリカは既に閉経を迎えていたのではないか、と思った。)

●夢想の崖、現実の崖:ワルターが、エリカの性の夢想を実現したとき、エリカは、現実と夢想の乖離に気づき、恐怖する。そこが、とても、悲しかった。(*パンフレットには「深夜、エリカの家を訪れたワルターは不本意ながら、彼女の求める通りの乱暴な愛を交わす。エリカは初めて官能に酔いしれながら」とあるが、そうか?「酔いしれて」たか?『さよならミス・ワイコフ』じゃないんだから。)

●「その虫のようなエリカの顔、能面、仮面が、ラストに『ガッ!』と壊れる。」:ぎりぎり「ネタバレなし」にできるように書いたつもりだが、あの衝撃のラストも、様々な論議を呼ぶところだと思う。ナイフをバッグに忍ばせ、ワルターの登場を待つエリカ。彼女は、彼を刺すつもりだったのだろうか。"普通"の映画ならば、きっとそうしていただろう。だが、そのドラマとしての予定調和を打ち破ったところにハネケの才気を感ずる。それも、妙に納得できてしまう行動なのだから、凄い。

●そして、スタスタと劇場を後にするエリカ。いやあ、これも凄い。「凄い」としか言い様がない。

[with ji/梅田ガーデン・シネマ/3.09.02.]■[review:3.09.02up/3.12.02newly update]

(評価:★5)

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