[コメント] 天国と地獄(1963/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
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・・・構造が面白い映画だ・・・観終わって、思わず鳥肌が立つ。
「天国と地獄」というタイトルからまず想起させられるのは、「天」と「地」という言葉が持つ物理的高低差のイメージと、「天国」と「地獄」という言葉が持つ幸不幸といった精神的高低差のイメージである。当然、私も、何か(人とか、階級とか、職業とか、エリアとか)を「天国」や「地獄」としてまずは完全に定位し、それをいじくりながら、いや、「天国」は「地獄」となりえるし、いやその逆も有り得るのだ、などという論法で映画が展開されていくものだと予想していた。たとえば、資本の多さと幸不幸の度合いは比例しないんだよ、的な・・・。
しかし、その予想は映画の冒頭シーンから裏切られた。
確かにこの映画は、物理的な高低差を非常に意識して描かれている。例えば、丘の上の家や川沿い低地のあばら屋群、高くそびえる煙突、背の高い主人と背中を丸める小柄な運転手などなど。そして、この物語全体を通じて語られる「貨幣」を媒体にした貧富の構図。見た目、その「高」「低」の描き方は大変明確である。
しかし、興味深いのは、それらの同じ高さの概念が、必ずしも同レベルの場所に集約されていないということだ。例えば、主人公は会社において「高い」役職を持っているがそれは冒頭シーンから危うい。偏見に繋がる恐れもあるが、映画制作当時の「靴屋」は意識的な設定を匂わせる。それは「高く」はない。役職を失い「低い」地位となった主人公は「高い」丘にそびえる我が家で芝を刈る。麻薬に侵された二人は眺めのいい「高」台に住み、世間的なステイタスとして「低くない」医者である犯人は「低」地に住み、「高」台を見上げる。
私の稚拙な考えを前提にすると、「まずは冒頭で整理された世界観(高いものはより高く、低いものはより低く)を分かりやすく提示しておき、それを徐々に破壊して語りたい本質を突いていく」というのが物語のセオリーというものだ。しかし、この映画は冒頭からその概念が入り乱れている。さて、これは黒澤の失敗なのだろうか?
私が、「これは黒澤の<意識的な>かく乱である」と感じたのは、冒頭シーンで主人公が靴を作る際の心得を語る台詞である。「靴は、ただ見た目を良く作ればいいってもんじゃない。そこには全体重を支える機能性が必要なんだ。頭にちょこんと乗せてデザインさえよければいい帽子とは訳がちがうんだ」云々。(どうもこのシーン・この台詞がなんとなく浮いていて、意識的に作られたものだと感じる。)そして、その感覚は、洒落た大きな帽子をかぶって川辺で札束を待ちかまえる犯人たちの姿を見て、決定的になった。人間の最も「低い」部位を覆う靴を作るブルジョアと、人間の最も高い部位を覆う帽子を被る貧しき麻薬中毒者。この入り乱れた構造は、黒澤によって冒頭から「宣言」されていたのである。にもかかわらず、この物語が破綻しないのは、「天国と地獄」というタイトルのおかげであろう。このタイトルは、先行して世界観を私のなかに作るだけの明確なインパクトがあった。ゆえに、この映画は、冒頭からその概念を破壊しえたのである。
さて、こんなことをつらつらと考えつつ、結局この映画が何を示したかったのかについての私の結論は、こうである。「(精神的な)高低は、外的な高低に決定づけられるものではないのだ」と。「要は、自分が幸福だと思えば幸福であるし、不幸だと言えば不幸なのだ」と。しかし、そう考えると、最後の2人が対峙するシーン、自分の不幸さを切々と訴える犯人に、シャッターをおろして、ジ・エンド。・・・愚痴っぽい人間には容赦無い黒澤である・・・。
ちなみにタイトルにある「天国」と「地獄」を(絵的に)明確に描いた場面があるとすれば、「地獄」はおそらく黄金町だろう。(しかし、この住人たちは妙に元気が良くて楽しそうだ。)では、天国は?・・・煙突からもくもくと吐かれるピンクの煙だろうか。(しかし、このシーンはとても不気味だ。)
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(蛇足)
構図の面白さとして、中盤に初出の登場人物を犯人と断定させる描き方をするのもとても面白いと思ったが、これについては、またいつか考えて追記する。
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