★3 | 美しき冒険旅行(1971/英) | 制服を脱ぎ、そして再び着るまでの冒険旅行。制服少女の艶美な白い両の脚やアボリジニ青年の精悍な黒い肌、この世界を構成する生き死にのグロデスクをクローズアップするショットあれこれ。
映し出すイメージは具体的でそれだけ画面は映画的なツヤを帯びるが、ショット連繋の規範が観念的であるだけ全体は調和に呑まれ、物語の現在形を生きられない。〔3.5〕 | [投票] |
★4 | カスパー・ハウザーの謎(1974/独) | 「概念が無い」とは、こういうことなのか。鄙びたドイツの田園風景、そこに溢れる淡白な陽光はどこまでも美しく、それが遂にカスパー・ハウザーその人の心には達し得なかったことが、逆説的に透明な悲哀として残像する。言葉をあたえれば失われる他ない印象そのものをブルーノ・Sは体現。映画はアウラを刻印する。 | [投票] |
★2 | 彼女の人生は間違いじゃない(2017/日) | 長廻しは特定のショットを見出せない為の長廻しでしかないように見え、クローズアップはこれ見よがしの演出意識の沈滞でしかないように見え、人物達のセリフ回しはいかにも説明的に聞こえ、不意に挿入される原子力発電所や核廃棄物処理場のイメージショットは具体的に物語へと止揚されることもない。その事象関連のありがちな挿話が集められているだけに見える。 | [投票] |
★3 | ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場(1986/米) | ハイスクールのクラブ活動みたいな鬼軍曹と兵士達のくだりもだが、何よりそのロートル軍曹と元奥さんとのくだり。年季のはいった「関係」の綾。「何言ってるの、私たち夫婦だったのよ」。手元に揺れる小さな星条旗の奥ゆかしさこそイーストウッドのパトリオティズムの具体的なイメージなんではないか。 | [投票] |
★2 | 腹腹時計(2001/日) | 昭和天皇暗殺に挑む架空のテロリストとして奮闘する渡辺文樹。だが哀しいかな、これでは単なる自主映画。拙い虚構を映画に変えるあの暴力的な庶民の顔や声はどこへいってしまったのか。 | [投票] |
★3 | クリミナル 2人の記憶を持つ男(2016/英=米) | ケヴィン・コスナーの、独特に匿名的な寡黙な風貌ありきの映画。尤もらしい表情芝居をしない(出来ない)スター俳優起用の妙。段取を踏むアクション演出。イメージ(画面)の断続を弁えた編集。感情の表出や情報の入出をセリフに託し過ぎなところもありにせよ、基本小気味よく展開される活劇。「私は誰」なんて問題にもせず問答無用に「俺は俺」な映画的精神。 | [投票] |
★2 | 少女(2016/日) | ゴルゴ13ばりの陰影で陰険な面貌の本田翼がでも素敵。山本美月の長い髪が逆巻く闇夜のショット。劇画調の少女漫画、といったていで、話は一貫するニュアンスも希薄に軽薄に推移するが、何気に細やかな演出には配慮をかんじる(なぜかしら部屋の外に出て少女と話す稲垣吾郎とか)。 | [投票] |
★2 | レッドタートル ある島の物語(2016/日=仏=ベルギー) | 海辺の岩場を素足で歩いても掠り傷一つ負わずにすむものだろうか。竹藪の笹さえ人間の軟な素足には刃物になるだろうに。海原のうねりはしっかりうねるが、水の中と水の上と、世界の肌理に変わりがないのもどういうものか。つまりはお定まりの西欧的エデンの園幻想のエコロジスム。この自然には神は宿らず(この映画には細部がない)。 | [投票] |
★3 | 剣鬼(1965/日) | 「抜いて、斬って、収めるだけ」の居合抜きを最期まで律儀に貫徹する班平。内実の欠落したキャラクターが、花と韋駄天と居合抜きだけで映画を支えきる。十分人間的なはずなのに、奇妙に動機と過程が抜け落ちたその肖像。 | [投票] |
★3 | これらのいやな帽子(1909/米) | 突然降りてくるモノの大きさにグリフィス氏の本気度。不条理なまでの大仕掛け。 | [投票] |
★3 | ニシノユキヒコの恋と冒険(2014/日) | ぶっちゃけて言えば「恋」というよりは「色」。出てくる女優陣が皆して色ぽくて目のやり場に困る感。でもその為の映画。竹野内豊の没個性的なしなやかなイケメンぶりが女性の潜在的な願望の形なのだとしたら、それもある意味怖い。正直言えば、女優陣が皆美人ばかり過ぎるのがむしろ玉に傷。でもやはりその為の映画。 | [投票] |
★4 | 仕組まれた罠(1954/米) | 文学原作もうなずける片鱗は随所に見られる。各人各様の運命のなりゆきが性格悲劇的。中年男の愛の捻じれた末の妄執も、悪女ぶらざるを得ない女の悲哀も、あるいは思いの届かない少女の純情も。冷めたスープ、愛と妄執を分かつメモ、あるいはフライング気味に溢れる涙。列車というのは画面を縦横に活かせるからこその装置でもあるのかも。 | [投票] |
★4 | 怒りの河(1952/米) | 山越えを見続けて、つくづく「西部の馬車(?)って丈夫!」と思わされる。また船という巨大な移動装置の映画性(桟橋から離れていく船縁)。ジェームズ・スチュワートの善人なだけでない、秘めたる力を飽くまで間接的に示す演出の妙。空間や時間の制限を有機的に活かしたシナリオが何より綿密。 | [投票] |
★4 | OK牧場の決斗(1957/米) | トータルにハイレベルなウェスタン…に思える。どことなくイメージのダブるバート・ランカスターとカーク・ダグラスの相棒関係の妙。べたつき過ぎない男女関係の綾。決闘は飽くまで私闘とするアメリカ人的モラル。勿論青い空と黄色い大地。何気に小奇麗な女性の服飾や調度品。ついでに、何度も出てくる道標。 | [投票] |
★3 | 東京マダムと大阪夫人(1953/日) | 高橋貞二や北原三枝のぶっきら棒なキャラがアクセントとして映画を活気づかせるし、ちょうど対称らしい同じ様な間取りの家の主婦二人が、どうも同じ様な顔つきに見える月丘夢路と水原真知子が演じているのも面白い。あと、サラリーマンが蝶ネクタイってのは、なんなのか。 | [投票] |
★3 | 王子と乞食(1977/英) | 王の王たる、貴人の貴人たるを示されることがどうしてそんなに感動的なのか判らんが、落ちぶれ剣士や乞食の少年が、王子の示したそれを認める瞬間が光る(でも何を示したのか)。剣と剣、あるいは体全体を使った肉弾戦にごまかしを感じないのもいい。なんだかアクションが地に足着いている。 | [投票] |
★3 | 好男好女(1995/日=台湾) | 現在、現在の中の過去、劇中劇としての過去。三つの時制がとくにタイトル挿入などの断りもなく、混交する。それだけでもよくやると思う。ホウ・シャオシェンは基本的に何かを待ち続けているのかな、と思う。リュミエール映画の態度のように、画面に何かがよぎる瞬間が来るのを。 | [投票] |
★3 | 憂鬱な楽園(1996/台湾) | 生理的に快感でしかありえない移動するキャメラの視点は、特徴的に、「繋ぐ」為にだけある。シーンとシーンが繋がる(切れる)瞬間が見ているその時でさえ記憶に残らないのは、タイミングが演出の計算の内に入っていないから(だろう)。ガタピシ、ちぐはぐ、その通り。でもこれはこれでも映画に見えてしまう。 | [投票] |
★3 | モロッコ(1930/米) | 軍楽隊の太鼓のマーチが遠くから聴こえて来て、そしてまた遠くへと消え去っていく映画。トーキー初期ってことで、音響効果に過分に意識的だったのかも知れない。風が吹かないな、と漠然と思っていたら、ラストシーンでこそ「パタパタヒュルル」と吹きすさんだ。 | [投票] |
★3 | 太平洋作戦(1951/米) | 「君が泣き虫でなくてよかった」と夫に言わせつつ、妻の隠した涙を幼い息子の言葉に託す。隠すことで示すモラル。物語には劇的な起伏もないが、この時代は観客に普通に軍隊経験があるので、軍隊生活を描くだけでも素朴な共感を得られたのかも。記録映像込みの空戦シーンは細かくカットを割らざるを得ず、いまいちつながってない。 | [投票] |