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きめこめさんのコメント: 更新順

★3三度目の殺人(2017/日)凝視の効用。その人の貌がその人の貌であることをやめて、既知の表情が未知の面影を宿し始める。それはそれで映画的なイメージの融解と結合の瞬間なのかも知れず。落とした涙の「真偽」をめぐる反問は、それが何より映画の中の虚構であることを通じて映画論的言及の端緒となる。映画とは人々が信じたがる物語の「空っぽの器」。しかし「空っぽの器」は人々が信じたがる物語ではない。〔3.5〕[投票(2)]
★4白夜(1971/仏=伊)人物が肩越に振り返る仕草が多い。しかしそれによって視線の印象が強調される。もっと言えば、人物から人物に投げかけられる感傷的関心こそが強調される。若い女が鏡に映る自身の裸身を見るその視線もまた肩越、見られる体と見る顔とがショットとして分割されることで、若い女の自身への感傷的関心=ナルシシズムが印象づけられる。ブレッソン的身体は自然な統合を生きない。[投票(3)]
★2彼女の人生は間違いじゃない(2017/日)長廻しは特定のショットを見出せない為の長廻しでしかないように見え、クローズアップはこれ見よがしの演出意識の沈滞でしかないように見え、人物達のセリフ回しはいかにも説明的に聞こえ、不意に挿入される原子力発電所や核廃棄物処理場のイメージショットは具体的に物語へと止揚されることもない。その事象関連のありがちな挿話が集められているだけに見える。[投票]
★4アデルの恋の物語(1975/仏)「情熱的な恋愛とその成就」と言う一人の才気ある娘が夢想した自己実現の物語は、「偉大過ぎる父親」と言う桎梏に暗に縛られ続け、遂に挫折する。娘はその名前を無言のまま鏡の表に指で描き込み直ぐに揉み消す。手紙が介したその「物語」の宛先にこそ、娘が拘り続けた本当の相手がいた、と言う物語。[投票(3)]
★3山の焚火(1985/スイス)姉弟、父母、祖父母の三世代の人間、三組の男女しか出てこない。遠眼鏡、虫眼鏡、あるいは手鏡や姿見は無論「見る」為の道具だが、それで見いだせるのは御互いに合わせ鏡のような存在でしかない肉親同士のみ。見つめ合うことは御互いを呪い合うこと。呪いによって結びつけられる男女=夫婦=家族。それ故に蠱惑的な「家族」の死の物語り。[投票(1)]
★3関ヶ原(2017/日)ビジネスマンや経営者の群像劇に見えてしまうのは、やはり「間」や「タメ」を敢えて排したのだろう演出による。その為に失われたように見えるのは人物同士の内実あるドラマ。象徴的なのは主役たる家康と三成の間にさえまともな視線の切り返しがないこと。それも“敢えて”だろうが、結局決定的場面ナシの印象に至る。[投票]
★3昼顔(2017/日)全て受け身で引き味のヒロインも「メガネ君」もまるで稚拙なガキに過ぎず、不貞物だろうとなんだろうと映画の主人公には何か一本だけでもスジが通っていなければダメなのだと思わされ続けるが、それが終盤のさもありなんな転回点に至りやっと映画のツヤを輝かせ始める。感傷を越えた人生の(映画の)感触を生き始める。意図なら迂遠だが、納得はする。[投票(1)]
★2ワンダーウーマン(2017/米)男性化した女性、あるいは女性化した男性としての「女戦士」。 [review][投票(3)]
★3ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場(1986/米)ハイスクールのクラブ活動みたいな鬼軍曹と兵士達のくだりもだが、何よりそのロートル軍曹と元奥さんとのくだり。年季のはいった「関係」の綾。「何言ってるの、私たち夫婦だったのよ」。手元に揺れる小さな星条旗の奥ゆかしさこそイーストウッドのパトリオティズムの具体的なイメージなんではないか。[投票]
★3ダンケルク(2017/英=米=仏)機体や船体に固定された画面の中で水平線=水平軸が動転するが、それは世界の中の視点ならぬ視点の中の世界という閉塞をこそ帰結する。科白の抑制とCGの排除が現実の現実感を画面にもたらすにせよ、決定的に「物を語る」ところの画面はついぞあらわれえず。ラストのランディング、懸命に手動する動作こそは、かろうじて「人間」の、「物語」の動作。かけがえのない「映画」の動作。[投票(2)]
★3散歩する侵略者(2017/日)言語の本質を前提した「概念奪取」という言語的段取にしかならないアトラクションは非映画的だが、こと「愛」という抽象を前にしたとき空転せざるを得ない認識がむしろ「愛」の観念的絶対性を際立たせてしまう、その逆説が作劇を意外に収斂させる。いわば言語の唯物論的抽象性が事象そのものの認識になりかわる。「愛」こそすべて(!)。[投票(2)]
★3FAKE(2016/日)その場面の“沈黙”の「質」を担保する生活者的ディテールあれこれ。あれこれの時間的持続の中での共有ありこそすれ、見る者はその場面の“沈黙”にある種の「応答」を見出す。この人はこういう人なのだ、と。その納得を導く為のあれこれが、そのまま映画自体が描き出す普遍的な「豊か」さともなる。楽曲は如何にも“それらしく”、それをそこに当てはめるセンスはまさしく諧謔。[投票(2)]
★2腹腹時計(2001/日)昭和天皇暗殺に挑む架空のテロリストとして奮闘する渡辺文樹。だが哀しいかな、これでは単なる自主映画。拙い虚構を映画に変えるあの暴力的な庶民の顔や声はどこへいってしまったのか。[投票]
★3名探偵ホームズ劇場版 ミセス・ハドソン人質事件/ドーバー海峡の大空中戦!(1986/日=伊)これもやっぱりサイレントスラップスティックコメディに連なる作品と見てよいと思われる(とくに「ドーバー海峡の大空中戦」は)。アクションのつるべ打ち。[投票]
★3恋人たち(2015/日)乞う人たち。不在の相手に向かって、あるいは相手の不在に向かって。橋口亮輔の描く人物たちは、人間の皮を被った人間ならぬ何者かの如き、しかしその故にこそ寧ろ確かに人間であるような人物たちに見える。敢えて言うなら、「臭い」人たち。生活世界の底辺に広がる水路の水面は、そこから見あげられる空の水色と確かに通じている。イメージのモチーフで現実をくるんで見せる、やはり映画。[投票(1)]
★3お嬢さん(2016/韓国)「映画」が映し出す事物の″それ自体″を露わにする器なら、ここに映し出される事物の″それ自体″が露わになることなどついぞ無い。奇を衒う知的なプロットとディテールを専ら図解説明する為だけの映像。なんとなればバラエティショーの″面白さ″。そのうえで面白いっちゃ面白いけども。[投票(2)]
★4ブロンド少女は過激に美しく(2009/ポルトガル=スペイン=仏)画面の中の画面の様な「窓」という縁取の枠組が、男女二人を結びつけたと言ってもいい。窓は四角形に視界をきりとることで、きりとられた対象を一個の肖像として仕立てる。画面の中で全ては生起する(全てを描写する)というサイレント映画的モラル。リカルド・トレパの少女を見初めた瞬間の正に「見初めた」表情。[投票(1)]
★4冬冬の夏休み(1984/台湾)窓や出入口がことごとく開け放たれてあるのは、これが夏の映画だからではなく、端的にそういう映画であるからだ。風と光に祝福された「真昼の映画」。だから唯一の夜は、生死の境を越えるべくしての夜となる。横たわり眠ること、そこから目覚めて起きることは、死と再生の謂いとなる。かつて「日本」だったその土地の映画。[投票(3)]
★3ゴースト・イン・ザ・シェル(2017/米)スカヨハの義体演技も肉襦袢コスも、バトーのカメラアイも、日本語のたけしも、過剰広告なビル群の街並も、露骨すぎるオリジナルリスペクトも、だいたい話の体裁の為だけみたいな自分探索問答も、全部が全部、尤もらしいというより胡散臭い。でも、それがいい。そんな胡散臭いものども犇いてこその「映画」。そのさ中に肉体の役者、役者の肉体が息づいてあることのかけがえのなさ。[投票(1)]
★3バンコクナイツ(2016/日=仏=タイ)“浮く”音響。車窓=画面=ロードムービー。水面のウタカタ。 [review][投票(2)]