コメンテータ
ランキング
HELP

さんのコメント: 更新順

★3東京マダムと大阪夫人(1953/日)高橋貞二北原三枝のぶっきら棒なキャラがアクセントとして映画を活気づかせるし、ちょうど対称らしい同じ様な間取りの家の主婦二人が、どうも同じ様な顔つきに見える月丘夢路水原真知子が演じているのも面白い。あと、サラリーマンが蝶ネクタイってのは、なんなのか。[投票]
★4めし(1951/日)最初に見て辛うじて記憶に残っていたのは、小さな階段の段差があるその小さな路地(袋小路)だった。小津にせよ溝口にせよ成瀬にせよ、その時代の映画にあって現在の映画には決定的にない映画的な舞台は、この「路地」ではないか。原節子の表情の豊かさ、島崎雪子のコケティッシュ、上原謙の憎めなさ。[投票(4)]
★3マリー・アントワネットに別れをつげて(2012/仏=スペイン)王妃の朗読係の肩越しに垣間見られる裏面史。遠くから響いてくる地鳴りの如きものとしての革命、歴史。明言出来ぬ自身の心の言葉を受け身の口づけを通して聞く。レア・セイドゥーの両の眼はいつも低温で、見つめる目であると同時に見つめられ(う)る目でもある。〔3.5〕[投票(1)]
★3抱きしめたい 真実の物語(2013/日)感覚的に言えば、ファーストショットに入るタイミングからして、「スタート!」の声(?)で始まってない。“途中”から始まってる。そういう運動神経の良さを前半は全般に感じるが、DVD映像のところでそれが明らかに停滞し、その後復調することはなかった。 [review][投票(2)]
★4傷だらけの挽歌(1971/米)誰彼隔てない撃たれっぷりのいさぎよさは、多分撃ちっぷりのいさぎよさに呼応している。一見悲劇的なハナシを喜劇的とさえ言える距離感で突き放す。しかし決して誰も能面ぶってもいない(誰もやり過ぎな程汗ばんでいる)。「痛み」とは肉体への物理的衝撃だということを知っている。[投票(2)]
★3好男好女(1995/日=台湾)現在、現在の中の過去、劇中劇としての過去。三つの時制がとくにタイトル挿入などの断りもなく、混交する。それだけでもよくやると思う。ホウ・シャオシェンは基本的に何かを待ち続けているのかな、と思う。リュミエール映画の態度のように、画面に何かがよぎる瞬間が来るのを。[投票]
★3王子と乞食(1977/英)王の王たる、貴人の貴人たるを示されることがどうしてそんなに感動的なのか判らんが、落ちぶれ剣士や乞食の少年が、王子の示したそれを認める瞬間が光る(でも何を示したのか)。剣と剣、あるいは体全体を使った肉弾戦にごまかしを感じないのもいい。なんだかアクションが地に足着いている。[投票]
★3憂鬱な楽園(1996/台湾)生理的に快感でしかありえない移動するキャメラの視点は、特徴的に、「繋ぐ」為にだけある。シーンとシーンが繋がる(切れる)瞬間が見ているその時でさえ記憶に残らないのは、タイミングが演出の計算の内に入っていないから(だろう)。ガタピシ、ちぐはぐ、その通り。でもこれはこれでも映画に見えてしまう。[投票]
★3モロッコ(1930/米)軍楽隊の太鼓のマーチが遠くから聴こえて来て、そしてまた遠くへと消え去っていく映画。トーキー初期ってことで、音響効果に過分に意識的だったのかも知れない。風が吹かないな、と漠然と思っていたら、ラストシーンでこそ「パタパタヒュルル」と吹きすさんだ。[投票]
★4元禄忠臣蔵・後編(1942/日)何気なく台詞を語る役者から他の台詞を語る役者へと橋渡し的にパンする画面、その狭間にはとくに何も映すべきものも映っていないが、極論としてはそこにこそ映画があるような感覚もしてしまう。ファントム・ライド的表象とは似て非なる、物語や世界の実在性を担保するモノ。[投票(1)]
★4元禄忠臣蔵・前編(1941/日)映画の画面にも天と地、手前と奥行き、上手と下手といった演出的な空間性があるということは、たんに約束事としてだけでなく、それが重力の束縛を受けた人間達や事物を被写体にしているという現実にこそ基礎を置いていたのかも知れない、なんて思わされる画面が続く。[投票(1)]
★3太平洋作戦(1951/米)「君が泣き虫でなくてよかった」と夫に言わせつつ、妻の隠した涙を幼い息子の言葉に託す。隠すことで示すモラル。物語には劇的な起伏もないが、この時代は観客に普通に軍隊経験があるので、軍隊生活を描くだけでも素朴な共感を得られたのかも。記録映像込みの空戦シーンは細かくカットを割らざるを得ず、いまいちつながってない。[投票]
★3てぃだかんかん〜海とサンゴと小さな奇跡〜(2010/日)たぶん素直に綴れば苦労話のメロドラマになりがちなところを、一見浮いたような沖縄言葉の平坦なイントネーションや何かと言えば殴りつけるお決まりの身振り、あるいはシーンつなぎの意匠等でもってしめらさないで最後までもっていく。家族の支えの言葉に接して主人公は走りだしたり飛び込んだり、体で反応するのも何故か泣ける。[投票]
★4フレンチ・カンカン(1955/仏)「豊」かな「色」と書いて「つや」と読む。ジャンはオーギュストの息子、ということを実感させられるつやつやした色彩映画。映画の服飾というのは役者の第二の皮膚なのかと思わせられる肌理。女達の脚、脚、脚が造花のようなひだひだのスカートの中で元気よく跳ねまわる。色で光を感じる。[投票(3)]
★3ゼロ・グラビティ(2013/米)中空を肌着で漂うサンドラ・ブロックを見て、『エイリアン』のシガニー・ウィーバーを思い出す。生きている、生きている、生きている、宇宙船という胎の中で、生きている。肌身をさらして、(肉体の)起伏を見せて、それではじめて辛うじて映画が成立する。寓意としての魂=露呈性。[投票(4)]
★4かぐや姫の物語(2013/日)風立ちぬ』が選ばれた人の物語なら『かぐや姫』は選ばれなかった人の物語。姫が桜の木の下で踊りまわる至福(である筈)の場面で、しかし何故かジャンプカット。編集される現在=運動。這入り込む自意識の間隙。現在をさえ十全に生き切ることの出来ない不幸。[投票]
★3過去のない男(2002/フィンランド=独=仏)今目の前で死を宣告された男が突然…。ある意味、ドライヤーの『奇跡』で最後に起こったことが、ここでは最初に起きる。理由はない。そうではなく、むしろそれ自体が映画の中では否応なく理由になってしまうということ。少なくとも映画では、メロドラマよりも喜劇こそがより偉大であり得るみたい。〔3.5〕[投票(2)]
★4永遠の語らい(2003/ポルトガル=仏=伊)子供の時分、夏休みに田舎の親の実家で遠くから響いてくる蝉しぐれにでも耳を傾けているかの如き、そんな時間が流れる。陰り、霞がかった空と海と街。画面に歴史が映っている。波間にしっかり揺れている客船。幕切れには、現実としての惨劇というより、映画としての痛快さを見てしまった。[投票(1)]
★3パーマネント野ばら(2010/日)回想や夢想のシーン、映画内に於けるその本来的不安定さは、映画の中の「現実」のあやうさをこそ示している。小津ゴダールをつい想起してしまうような画面の連鎖が、それでいてよくも悪しくも人間の物語にしっかり着地する。〔3.5〕 [review][投票]
★4東京物語(1953/日)同じ様なショット、同じ様なシーン、同じ様なセリフ、その反復。しかし「反復」は同一的ではあっても同一そのものではない。飽くまで同一“的”でしかないからこそ逆に差異が焦点化される。日常の(物語の)原理が作品の形そのものとして実現される。現在(生=同一性)のさ中にあっての過去(死=差異)の存在が、画面に暗い影を落とし続ける映画。[投票(1)]