[コメント] デス・プルーフ in グラインドハウス(2007/米)
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と、いうのは「グラインドハウス」USA版を見ての感想。本日、単体公開版を見て、彼女たちがますます好きになった。ダッチ・チャレンジャーのボンネットに乗っかるゾーイは『駅馬車』で馬車の上からライフルを撃つジョン・ウェインより刺激的なのだが、シンプルなアクション西部劇である『駅馬車』の重みが前半ドラマ部分でのキャラクター造形にあるのと同様、やはり本作も、カースタントに至るまでの演出の巧さが随所に光っている。見る度に発見がある映画だということだ。
演出の主要素である会話が取るに足らない内容に聞こえるのは、そこに含むところがない、つまりサブテキスト要素が皆無であるからなのだが、だからこそこれが極めて自然なトークになっている。芝居臭さがなく、かといってケン・ローチやダルデンヌ兄弟のようなリアリズムとも異なるもので、「スター俳優が出ていない」というグラインドハウスムービーの特色を踏まえて緻密に作り込まれた、B級アクション娯楽映画のリアリティなのだ。
そんな中でスター的異彩を放つキャラはカート・ラッセルとローズ・マッゴーワン(助手席に乗る金髪女性役)。マッゴーワンは『プラネット・テラー』の主役なのだが、まったく印象が違っていて、ドリュー・バリモアがカメオ出演しているのかと思ってしまった(ジュリアン・ムーアにも似てる)。ラッセルは終盤のヘタレ具合がマンガチックで印象的だが、それに至るまでにも細かいところで笑いをこらえるようなシーンが随所にある。バーのポーチでくしゃみが出そうで出ないなんていう演出をよく思いつくと感心した。
クライマックスのカーチェイスは、疾走する車両を自在なアングルで撮影できるアルティメットアームカメラクレーン(http://www.livescience.com/imageoftheday/siod_060728.html)を使った臨場感溢れるもので、今後はこの方法が主流になるだろう。70年代テイストながら画に斬新さを感じるところでもある。
余談
世の中にカルト映画という分野があって、ピンポイントでコアなファンに偏愛される作品群をそう称するのであるが、はたして本作はカルトだろうか。星1つか星5つの二者択一の映画というのもすっきりしていて気持ちがいいが、タランティーノが意図するのはちょっとそれとは違うような気がしてならない。
この映画がある種の「狭さ」を感じさせるのは間違いないと思うのだが、それはカルト狙いのマニアックなものというよりも、古典映画が持つ一種の「型(かた)」ではないかと思うのだ。つまり、創作の観点からは傍流ではなくむしろ旧来的な王道路線であり、原点回帰であり、保守主義なのではないだろうか。
何が言いたいのかというと、現代の映画はどこかで現実に通じていないと共感すら得られずに即突っ込みの対象になるのに対し、古典映画は「映画の中のお話だよ」という暗黙の了解が確実に生きていて、観客は作劇上の嘘について、もっと寛容ではなかっただろうか、ということなのだ。
このことについては私も考え中なのであくまで問題提起ということになるが、タランティーノがやろうとしていることは、あえて作り物であるという「縛り」を露わにしておいて、その上に乗っかって素直に喜怒哀楽を発散させて欲しい、ということではないだろうか。カルト、マニアといったレッテルで処理してしまうのを躊躇わせるだけの真摯な「映画への愛」をひしひしと感じてしまった。
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