[コメント] ダークナイト(2008/米)
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ここで「話術」という語についてもう少し言葉を尽しておこう。私の云う話術とは決して「脚本自体の出来」を意味しているのではない。むしろそれは展開の整合性の難やシーンの過不足といった脚本の抱える弱点を撮影・編集段階で生み出される瞬間瞬間の面白さによって覆い隠す(ときに魅力にまで転化する)語り=騙りの技術のことである。したがって、映画史上最高の話術の持ち主は誰か、と問われれば、それはアルフレッド・ヒッチコックである、と答えるべきだろう。そのような意味においての見事な話術を、この『ダークナイト』でも存分に堪能できる(たとえばゲイリー・オールドマンの「死」と「復活」なんてよくよく考えると随分いいかげんな話のはずなのですが、鑑賞中はまったくそんなことを気にする間もないままにあれよあれよと見せられ、挙句泣かされまでしてしまいます。なんだか騙されているようですが、それはまさに語り=騙りの編集が秀でていたからです)。
さて、ここでのノーランは破壊王でもある。窓ガラスがあるとなればそれを割らずにはおれず、自動車が走っているとなればそれを横転させないでは気が済まない。ノーランは窓ガラスにヒビが入り粉々に砕け散るさまと豪快に自動車が転がるさまにフェティッシュな快楽を覚えているようで、それらを引き起こす彼の態度はほとんどパラノイアックである。スペクタクルという点においてこの映画が他の凡庸なハリウッド破壊アクション映画と一線を画すことができた根本的な要因は、ノーランのその「もっと気持ちよい破壊」を求める態度の的確さにある。そして破壊のスペクタクルが頂点を極めたのはおそらく次の二箇所であろう。すなわち、トレーラーの横転ならぬ「縦」転とゴッサム市総合病院の大爆破である。破壊と混乱の権化ジョーカーになりきったヒース・レジャーの演技のすばらしさは云わずもがなだが(ジャック・ニコルソンごときでは足元にも及ばない!)、上に述べたような意味において、『ダークナイト』の「ジョーカー」とは正確にレジャーとノーランの複合体であると云えるだろう。
また、シネスコという「画面サイズ」と二時間半あまりの「上映時間」がこれほど必要不可欠に思えた映画も私にとっては久しぶりである。前者は画面の縦横を駆使した構図・アクションが、後者は物語の密度が要求しているものだ。つまり画面サイズと上映持間の「必然」がここにはあるということ。それは美しい必然である。
そしてこれは優れた映画の多くがそうであるように、私の映画的記憶を快く刺激するフィルムでもある。シーゲル『突破口!』もかくやの鮮やかさを見せる銀行強盗シーンの処理。葬儀パレードの警官隊はシネスコによるキートン『警官騒動』とでも云うべきスペクタクルだ。我先にゴッサム・シティを脱出しようとする人々の絶望的リアルはスピルバーグ『宇宙戦争』を彷彿とさせる。取調室の真っ白な照明を浴びたレジャーの顔面クロースアップ、その悪夢的なイメージはリンチ『インランド・エンパイア』のそれが子供騙しであったことを暴いてしまうほどに強烈であり、同じくレジャーの“Let's put a smile on that face!”は過激を極めたグリフィス『散り行く花』のリリアン・ギッシュだ。
『ダークナイト』は映画史に接続しつつ現代アクション映画の先頭を走る。
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