[コメント] ゴジラ FINAL WARS(2004/日)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
文章をまとめて一段落着いたかと思うと、後から後から書きたいことが湧き出てきて止まらない。何を結論とすればいいのか、自分でも悩んでいる。当初「通好みの怪獣映画ばかり作ってきたことによる束縛と、世間との剥離」を書いたが、公開当日ゆえに相当熱くなっていた自分に翌日になって気が付いた。なので、前回書いた文章はちょっと封印して、改めて思うことを書かせて頂く。
最新の特殊技術、ワイヤーワーク、素早いカット割り、さらに世界的ロケ敢行……。話からしても、この映画が数々のSFやアクション映画からネタを頂いたのは一目瞭然である。それを何の臆面も無く堂々と出しているあたり、監督の北村龍平の肝っ玉は恐ろしいものがある。「ゴジラ2000」を作った大河原孝夫の比ではない。無論、ミレニアムシリーズでゴジラを撮った手塚昌明も金子修介も相当な度胸の持ち主で、過去作品に対する敬意が凄く上手な方であるし、ファンの支持があるのも当然な話なのだが、今回ばかりはそうはいかない。簡単に言ってしまえば、
「東宝特撮、49年間いろいろやってきましたが、今回は今まで作ってきた映画をネタにして、私の思ったとおりにやらせて頂きます」そういう映画だった。
パンフレットのインタビューで北村監督は言う。「海外でロケをしようと言った時に、プロデューサーに“どうしますか?えらいことになりますよ”と相談したら、“えらいことになってもいい、やろう”と言葉が出た。この人は男だと思った。」「気が狂いそうになるほどのエネルギーを傾けて映画を作っている。いい加減なものを作るなんて事はしたくない。」
この映画は狂うことを覚悟でやっていた。ハリウッド映画へのオマージュ、パロディ、悪く言えばパクリを、何の恥ずかしさも無く堂々と画面に展開させた度胸。科学も力学もヘッタクレもないアクションを怪獣にもさせたセンス。そして金子ゴジラが台詞でさらりと言っていたアメリカ版ゴジラへの批判を、ゴジラがジラを30秒足らずで瞬殺するという絵で表現するという包み隠しの無さ。手塚や金子なら、ゴジラを含めたあらゆる怪獣に絶対にさせず、怪獣のために越えさせなかった一線を、北村龍平はあっさりと越えた。というか、そんな一線などかれには問題ではなかったのだろう。
ここに、この映画の骨子がある。訴えたいことを作品のテーマとして全体的にまんべんなく隠しているのが手塚や金子の作るゴジラなのだが、これをあえて「日本人的」とするなら、北村の作ったゴジラは「ハリウッド的」なのだ。
20世紀末、ゴジラがハリウッドに渡ると聞いて当初は物凄く期待した。ところが、余りにも姿形が違うゴジラに困惑し、挙句映画には何の共感も出来なかった(『GODZILLA』のレビュー参照)。放射能で巨大化した怪獣が大暴れするという、ハリウッドが散々作ってきた単なるB級モンスター映画のパワーアップ版でしかなかった。ハリウッドはハリウッドなりに、ゴジラその他の巨大怪獣映画の見所を理解し、そこに重点を置けばよかったのだ。派手にビルを壊す、他の怪獣と大格闘を繰り広げる、そういう絵がハリウッドでも見られるかと思ったら、全然そうならないことに心底怒りを覚えた。
ならば、と北村はそれを目指した。怪獣同士を派手に戦わせよう、そして人間対宇宙人も、人間対怪獣も派手にさせよう。気が狂うくらいに。新しいゴジラを作ろうとして中途半端になってしまったハリウッドに、こちらから喧嘩を売ってやろうじゃないか!
……現状では、邦画はハリウッドよりもパワーがあるかと言うと、無い。だが邦画は邦画で出来る事がある。ハリウッドに「セカチュー」や「いま会い」みたいな純愛モノは作れそうもないし、ホラー作品に至っては逆輸入すら起きている。何度も名前を出しているが、手塚や金子は「邦画は邦画で出来る範囲の中で作った最高級のゴジラ」を作ってきたのに対し、北村は20億円でハリウッドに喧嘩を売るようなゴジラをこしらえた。今の為替相場だと1900万ドルくらいか。ハリウッドの予算に適うべくも無いが、面頭向かって「テメーの作るゴジラはダセェんだよ!コレくらいやってみろ!!」とはそうそう言えたものではない。
98年の米ゴジラがこれくらいはじけていれば、日本のゴジラがファイナルにならなかったかもしれない。実に残念だ。あるいは、ミレニアムを作る時にこれくらい反論してもよかったはずなのに……。あ、監督が大河原孝夫じゃ無理か。何事も中途半端はよくないのです。もっとも、誰もここまでやれとは言ってませんが。
<追記:公開当日書いたものを練り直し>
……上に書いた文章でやたらと手塚と金子の名前を出し、過去のゴジラに対して敬意が溢れている映画をきちんと作った人として挙げさせて頂いた。それは紛れも無い事実なのだが、結局のところそれは“俺ならゴジラと○○○を使ってこういう話を作る”という範疇にとどまってしまった。それだけならば北村もそうなのだが、先の二人の場合はこの後に一言続きがある。“これならファンも納得してくれる”。
これが手塚ゴジラや金子ゴジラ、ひいては平成ガメラにおいて生じていた「通好み」という要素である。つまり一つ設定を作るにしても、過去の作品からいろいろな要素を取り込み、かつ作品内で生かしている。前作「東京SOS」は、まさにその極致ともいえる作品で、準主役だった小泉博を同じ役で出現させ、所々にオマージュを捧げるというおまけまで付けた、恐ろしいほどに良く出来た映画だった。が、北村ゴジラはそんなことにすら喧嘩を売っている。「そんなんじゃ、いつまでたっても新しいことが出来ないぜ」と。
新しいゴジラを作ろう、という動きは確かにあった。とりわけ「2000」と「メガギラス」にはそういう要素が十分あったのだが、大河原は通好みなんだかよく分からない映画にしてしまい見事に撃沈し、手塚のメガギラスでようやくSFアクションとしてまとまるくらいだった。後者に関しては評判もそれなりに良くこれが成功すれば道もあったのだが、一般客層にはインパクト不足だったようで観客動員数も135万人と低調だった。かくして「やはり客を呼ぶには過去の名怪獣しかないのか?」という流れが出来てしまった。
そしてメガホンを託された平成ガメラの金子は大胆極まりない設定で攻めつつも、第一作目のメッセージを忘れることの無い正統たる続編を作ってみせ、大絶賛された。「ハム太郎」との同時上映もあったのか、観客動員数も前回の105万人アップとなった。が、金子ゴジラの大胆さは「ハム太郎」を観に来た客層とは会わなかったようで、そんな人達にも楽しんでもらえるようにもう少し分かりやすい話にするようになった。かくしてゴジラの骨をベースに作られた新・メカゴジラ“機龍”が誕生する。ロボットアニメに触発されたような描写と、自衛隊という組織に属する人物を主人公にすることで現実感を出すことで……
と、ここまで書いて気付いたが、ミレニアムシリーズに入ってから“手を変え品を変え”感がありすぎる。さらに、新しく手を変える度に新しい設定を過去から持ち出すようにもなってしまった。ファンの間から“無理ありすぎ”と言われつつも、同じ世界観で延々突っ走った平成ゴジラシリーズと比べてしまうと、このシリーズは余りにも迷走をしすぎている。そしてその迷走はそのまま、平成ゴジラよりも格段に少ない観客動員数の低迷という形で、数字として現れている。
こんなことを書くと「そもそも、こんないい映画を観にこないなんておかしい」と言いたくなるかもしれないが、それはファンの驕りではないのか? 確かにGMKも東京SOSも、ファンの眼からすれば完成度は余りにも高かった。自分でもこの映画には★5を付けているし、コメントもつらつらと書きたくなるくらいの想いをぶつけられる作品に仕上がっていた。ところが、これだけの作品だというのに客足が伸びないという事実を知って愕然とした覚えがある。「いったい、何がいけないのだ?」そんな疑問にぶち当たったある日、こんな文章を眼にした。日本においてSFというジャンルそのものが氷河期を迎えていることを挙げ、それに対しこう述べている。
「(前略)大衆を馬鹿にし、それとの間に壁を作るような分野は、やがて大衆に復讐をされる。そして壁の中で近親相姦に近い相手を見つけるしかなくなる。これはSFに限ったことではない。あらゆる文学・芸術の分野、政治、経済においても言える原則であろう。」
……もしや、と思うものがあった。これと同じことが、怪獣映画で起きているのではあるまいか、と。怪獣映画というものを持ち上げすぎ、それがいつの間にやら大衆を馬鹿にしたことがきっかけで、それとの間に壁を作るような分野に入りかけているのではないか、と。その兆候はかの金子修介が手掛けた“平成ガメラシリーズ”あたりから始まったのではないかと思う。「大人の鑑賞にも堪えうる」怪獣映画を目指し、現にそうなっていた3部作だったが、あれが万人に認められるような映画だったかというと、決してそうだとは言い切れない。平成ガメラはリアルリアルと持ち上げられるが、怪獣映画(あるいは他のSFやアニメ等)をよく知っているからこそ、あの現実感や設定を作り出しかつ映像化出来たのだ。そして、そういった要素にいの一番に熱狂するのは、我々のようなファンなのだ。そして我々は叫んだ。「やっぱり怪獣映画は大人のものだ。」
だが、その「大人」とは誰のことだったのか。大人は大人でも「怪獣が大好きな大人」のことだったのではなかろうか。そう、この瞬間、怪獣映画は万人のモノでは無くなり、特定のファンのものになってしまったのだ。
無論これは、金子修介が悪いのではないし、彼を凶弾する気はことさら無い。むしろ恵まれない状況下でアレだけの映画を撮ってくれたことを褒めたい。問題なのは、平成ガメラの登場に浮かれすぎてあの映画を持ち上げすぎ、世間体でヒットしていた平成ゴジラシリーズを批判してしまった我々にある。映画の出来不出来を責めるのは仕方が無い(確かに「スペゴジ」「デストロイア」はさすがに誉められない)が、そもそも平成ゴジラが過去の怪獣を復活させるという流れを作り上げ、かつ話題にさせてヒットもしたという功績は誰も評価していない。復活させるならもっとまともな方法を取れ、と文句も出そうだが、ではどうすれば良かったのか? 我々がどうあがいても、それは“ファンの創作”の域からは出ない。平成ガメラとて“ファンの創作の延長”と“万人受けする映画”のギリギリの線をいくような映画であり、これが新基準を作ったといえば聴こえも良いが、逆にファンのところに近づけ過ぎ、怪獣映画は世間体からどんどん外れていってしまったのだ。そしてミレニアムシリーズは、怪獣映画と世間体との格差が余りにも離れすぎてしまった状態でのスタートとなり、どちらについていいのやら分からず、延々と迷走を続けていくことになったのである。
だからこそ北村は、迷走を続けるミレニアムゴジラの閉塞感に対しズバリ「うざったい」と言い放った。彼にとっては過去との整合性はどうでもよく、怪獣を世界中で大暴れさせ、かつ凄まじいアクションを繰り広げることが重要だった。そのためには手塚や金子が大切にしたリアリティすらも犠牲にしたわけで、だからこそこの映画に対する評価も割れるのであろう。
自分はどうかというと、劇場を出る時に頬が緩んでいた。今まで手塚や金子を褒め続けていた自分だったが、今回は北村龍平にしてやられた。映画自体は4点だが、北村龍平という監督に対してプラス1点。トンでもないことしてくれたね、アンタ!
最後に。自分が行った劇場では、パンフの隣になぜか防衛白書が置いてありました。自衛隊、出てこないのにね。
<さらに追記:ラストについて>
……個人的なことだが、正直ラストには驚かされた。雑誌「映画秘宝」は本作を推薦するようなことを書いていたが、締めの言葉は「ただ、ラストがなぁ……」とあった。それが何を意味するのかと思い、劇場でそれを確認した次第だが、どこかガッカリしたような雑誌記事と違い、自分の心の中は「やられた!」という、スカッとした気分になっていた。何故か?
もしあの場面で、ゴジラが人類側の誰かを倒すなり何なりして去っていったとしよう。どこかでそんなシーンが過去作品に無かっただろうか? ……そう『ゴジラ2000ミレニアム』だ。オルガを倒した後、さらに阿部寛をぶっ潰したゴジラを止めるものは何も無く、なおも収まらぬ怒りをぶつけるがごとく街を炎の海と化す。それを見た村田雅浩の言葉は「ゴジラは俺達の心の中にいるんだ。」 この映画でゴジラが怒っていた原因は「人間達のエネルギーを憎んでいるから」だと劇中で明かされている(といっても台詞で一言だけだが)。つまりオルガを倒した後もそれは継続しており、今後人類がどう手をうっても止めることの出来ないもの、どうすることも出来ない問題だといえる。人類が生み出したエネルギーによって人類そのものは潤ったが、その反面ゴジラを産み出し、怒らせる要因を作り出したことも事実なのだ。人類がこの世に行き続けようとする以上、ゴジラはいつまでも我々を恨み続ける。そして人類もまたゴジラを恨み続ける結果となる。となると、あの村田雅浩の一見意味不明だった台詞の意味も、徐々に分かってくる。つまりゴジラは、「俺達=人類」の「心の中にいる=避けることも逃げることも出来ないもの」であり、ゴジラが怒りを納める時はゴジラ自身が人類文明を終焉させた時であり、反対に人類がゴジラを倒すには自らの文明を終焉させるぐらいの力が必要なのである。これでは、どうしようもない。
ところが今回はそうならなかった。ゴジラによって操縦不能となった轟天から脱出した主人公達の前に、なおも迫る怪獣王。銃を構える主人公達……と、そこへ、ヒョコヒョコとやってきた一匹の怪獣が!
ミニラだ!
そしてミニラと共に行動を続けた少年と老人も一緒だ。ゴジラを見た老人は銃を構えるが、その前に少年が立ちふさがる。「止めてよ!」それを見たミニラが、なんとゴジラの前に立って同じポーズをとった。それを見て、自ら銃を下ろす老人。そして一言つぶやく。「もう、許してやれよ。」……くるりと振り返り、海へと帰るゴジラ。その後を追うミニラ。
そう、少年そしてミニラは、既にX星人や怪獣達の激闘によって破壊しつくされた文明において、なおも“恨みの累乗”を重ねようとする大人達、つまり人類とゴジラに対し「否」と言ったのだ。「そんな未来なんてもう嫌だよ!」……モロボシダンではないが、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」を、止めようとするものがようやく現われたのだ。その少年の想いをいの一番に汲み取った大人が、少年と一緒にいた老人で、しかも長年自然の中で暮らしてきたマタギという職業の男だったのが面白い。これが主人公やヒロイン、はたまた轟天号艦長だった場合は、どう考えても偽善的なものになっていただろう。
では、本作のこの結末に希望はあるのか? ある、と断言しよう。ゴジラがミニラと共に向かっていった先はどこだったか、思い出して欲しい。
彼等の正面には、朝日が昇っていたじゃないか。
(評価:
)投票
このコメントを気に入った人達 (21 人) | [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] [*] |
コメンテータ(コメントを公開している登録ユーザ)は他の人のコメントに投票ができます。なお、自分のものには投票できません。