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[コメント] ミュンヘン(2005/米)

時に心の拠り所となり、時に厄介となる「祖国」という問題を、「家族」というミニマムな集団との対比に置きつつ「観せる」ことを忘れずに描き切ったことは素晴らしい。それにしても「モサド」って名前はカッコいい。
Myurakz

**ネタバレ注意**
映画を見終った人むけのレビューです。

これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。







 人が集まって家族となり、家族が集うことで社会が出来る。その社会を整備したものを国家だと考えるなら、国家に殉ずることはイコール家族に殉ずることになる。まして民族が同じであれば尚更だ。そしてそこでは、時に一部の家族が多くの家族の幸福のために犠牲を強いられるようになる。何故ならそれが国家の幸せであり、ひいては家族の幸せだから。国家は家族となり、祖国は我が家となる。その信仰が民衆の隅々に行き渡った時、問題はどこからか不思議な変質を起こしている。

 国家はいつも国家のことを考えて選択をする。何故なら国家は「家族が集って出来上がったもの」であり、国家を考えることをは家族を考えることだからだ。だけど家族は「国家を細かく分けて出来上がったもの」じゃない。家族は「人が集まって出来たもの」だ。その一方通行を見間違えたとき、人は国家のために己と己の家族を犠牲にできるようになってしまう。でも最低限の家族の幸せなくして国家の幸せなんてあり得ないし、一つの家族が背負い込むにはその荷はどうにも重すぎる。家族が幸せになるために存在するのが国家であって、国家が幸せに成り立つために家族があるんじゃない。

 今作は主人公の家族を見せること、暗殺される側の家族を見せること、そしてモサドの人々の家族を“見せないこと”で我々に問いかけます。「彼らが帰るべき場所はどこですか?」。悲願の国家なのか、誇るべき民族なのか、愛すべき土地なのか、暖かな夕食を共に出来る人々の元なのか。自らの意思で移住する人々がその見知らぬ土地でも家族として暮らしていけるように、答えはひどく単純なところにあります。

 もちろんこれは“今作に於ける”答えであり、当事者にとってみれば「祖国を持っている者の贅沢」な思想なのかも知れません。だけど祖国に己の家族を埋没させることは、そのまま敵側の人々や家族を敵側の国家に埋没させることにもなるんです。殺す側にも殺される側にも彼らなりの理があり、帰るべき家があり、愛すべき家族がいる。そんな簡単なことが埋もれて消えてしまう。

 フランスの諜報集団の「パパ」はそんな問題への一つの回答の形として物語に登場してきます。彼は国家は国家であり、祖国は祖国であり、そして家族は家族であることを己の経験を以って知っています。だからこそ彼との何気ない会話は主人公のその後の選択の分岐点となり、また「君が息子だったらと思う。しかし君は息子ではないんだ」の台詞が非常に重い意味を持つようになるんです。

 突き詰めれば道徳で習うくらいの簡単な話でありながら、国単位でそれを見失ってしまう。それは決して愚かなわけではなく、それだけ祖国、民族(そして宗教)という問題が根深いということなんだと思います。誰だって帰るべき国は欲しい。そしてその国には誇るべき正義があって欲しい。多民族国家であるアメリカに暮らすユダヤ系スピルバーグらしい視点の偏らない、そして“観せる”ことを忘れない饒舌な映画だったと思います。

(評価:★5)

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