[コメント] 地獄の黙示録(1979/米)
映画を見終った人むけのレビューです。
これ以降の文章には映画の内容に関する重要な情報が書かれています。
まだ映画を見ていない人がみると映画の面白さを損なうことがありますのでご注意下さい。
と言うと、多くの方から反発を招きそうだが、断っておくと、これは、かの文豪アーネスト・へミングウェイが、マーク・トゥエイン著の『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下『ハックの冒険』)について「すべての現代アメリカ文学は『ハックルベリー・フィン』という一冊の本に由来する。」(”Green Hills of Africa”:『アフリカの緑の丘』)と評した有名なことばを引用した。
なぜ引用したのか。なぜなら、これは、ポストモダンにおける「黙示録」であり、『ハックの冒険』だからだ。
なぜ、私がそのように解釈したか。詳しくは下のreviewへ(長すぎるぞ↓)。本当にこんなreview読んでもらえるのだろうか、コッポラ的な一抹の不安を抱きつつ・・・
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■はじめに:
本reviewには『地獄の黙示録』(以下、Apocalypse Now)『地獄の黙示録 特別完全版』(以下、Redux)のネタバレが含まれています。
また、本reviewは、映画に負けないほど、かなりの長文で、しかも複雑な構成と思われます。一応、二部構成になっており、前半は『Apocalypse Now (Redux)』における微視的な解釈を、後半は『Apocalypse Now (Redux)』と『ハックの冒険』との関連性、及びポストモダンにおける「黙示録」との関連性、いわゆる巨視的な独自解釈を、書きました。
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■1.『Apocalypse Now (Redux)』についての微視的論考:
□1.0. はじめに
「さて、読んでやろう!」と思ってくださった方の出鼻を挫くようで申し訳ないが、この微視的解釈については、様々な文献やウェブサイトで既になされているので、詳しく深い解釈については、手軽に読める次のウェブサイトのページに任せたい。:「闇の奥―映画『地獄の黙示録』 Tribute Page」;「Greatest Films:Apocalypse Now / Apocalypse Now Redux」(ULRはReference参照)
しかし、どちらもかなりの長文なので(それだけの価値は十分保証するし、何より実によく整理され見事な文体。英語も読みやすい)、時間に余裕のない方のために、一応、映画の時間軸に沿って、私が興味を惹かれた箇所について、簡単に紹介することにする(*本論ではないので、興味のない方は、読み飛ばしてください)。その際、「闇の奥」は(Y)、「Greatest〜」は(G)と記すことにする。印がないものは、私独自の解釈、あるいは、他のリファレンスに拠るもの。
□1.1. (Y)オープニングのシークエンス:部屋のファン音が、ヘリコプターのプロペラの音を喚起させ、ウィラード(マーティン・シーン)をジャングルの夢へ誘う。(G)また、この夢の中のジャングルのシーンは、35mm公開版(現在レンタルビデオ店に流通しているのはこの版)におけるエンド・クレジットの背景に使用されるカーツの寺院の爆破とシンクロナイズしている。
□1.2.1. (Y)このシークエンスに使用される、The Doorsの”The End”(アルバム”The Doors”収録)。この『Apocalypse Now (Redux)』は、コメントでも記したとおり、様々なテクストの引用をモチーフに随処に散りばめてあるが、この”The End”の歌詞も然りである。また映画中では、(恐らく意図的に)削られている歌詞こそが、この『Apocalypse Now (Redux)』と言える。歌詞については、The Doorsのオフィシャル・サイトにて確認していただきたいが、「そして、彼はドアにたどりついた。 部屋の中を覗き込んだ。 『父さん?』 『なんだい?息子よ』 『あなたを殺したい・・・母さん、僕はあなたを・・・』 」(拙訳)と歌われる。この”The End”がオディプス・コンプレックス的色彩を帯びた歌とするなら、ウィラードによるカーツ大佐への感情にも相似していることは明白である。(この”The End”はカーツ大佐殺害のシーンにも再使用されるが、私が引用した箇所の後からフェイドインする。この演出は素晴らしい。)そう言えば、”All the children are insane”(子どもたちすべては狂っている)とも歌われる。
□1.2.2. また、他にも ”Driver, where’re you taking us?”(運転手さんよ、僕らをどこへ連れていくんだ?)=巨視的にはヴェトナム戦争,微視的にはウィラードのボートの行先 : ”He took a face from the ancient gallery”(古代の回廊から顔を取った)→カーツ大佐(マーロン・ブランド)の殺害に際し、ウィラードは顔にペイントする。古代(未開)人への回帰 : ”The end, it hurts to set you free”(終焉。あなたを自由にすることは痛みを伴う) : ”ride the snake”(蛇に乗る)→邪悪の象徴でもある蛇。『ハックの冒険』にも極めて重要なメタファーとして登場する。
□1.3. (Y/G)サイゴンのホテルにて。ウィラードが鏡を割る→自己否定。
□1.4.1. (G)ウィラードに任務内容を告げる昼食会。コーマン大尉(G.D.スプラドリン)はロジャー・コーマン、ルーカス中佐(ハリソン・フォード)はジョージ・ルーカス、とそれぞれへのトリビュートだそうだ。
□1.4.2. 私がこの作品に惹きこまれたのは、なにはともあれ、カーツ大佐がテープに吹き込んだセリフ「カタツムリがまっすぐな剃刀の上を這う。わたしの悪夢だ・・・」にある。この想像力をかき立てる、生生しいイメージを喚起させることば。これこそが、この映画『Apocalypse Now (Redux)』自体と、描かれる世界のメタファー、もしくはイメージを見事に表現したことばであると確信する。
□1.4.3. “unsound”(不健全):コーマン大尉は、カーツ大佐の現状を一言で表現するのに、しばらく間を置いて、この”unsound”を用いる。”crazy”や”insane”ではなく、”unsound”である。 “sound”は、「1.健全な,正常な,信頼できる,まっとうな 2.腐っていない,無傷な 3. 論理的に正しい;(教義・神学者など)正統の」の多義的な単語があり、その反意語の”unsound”を、カーツ大佐に適応する。ウィラードから、軍上部から”unsound”と自分が評されていることを知ったカーツは冷笑的に応じる。
□1.4.4. “Terminate with extreme prejudice”(終わらせる[絶つ]のだ、最大限の偏見をもって):この昼食会に参加する、不気味な《沈黙》の民間人がウィラードに対して発する一言。”terminate”には「終わらせる;解雇する;遮る」という意味である。だが、”with extreme prejudice”ということばが付くことによって、この”terminate”の意図とは、すなわち、”ex-terminate”、「(病気・思想・信仰・雑草・害虫などを)根絶する,絶滅させる,皆殺しにする,駆除する」であることは自明である。また、ウィラードがカーツ大佐の殺害後、カーツが赤い字で走り書きした”Drop the Bomb!Exterminate Them All!” (爆弾を投下せよ!奴らを絶滅させるのだ!)を発見する。この”exterminate”も、《terminate with extreme prejudice》とシンクロナイズしている。
□1.4.5. 「最大限の偏見」とは何だろうか。これこそが、アメリカの独善的道徳観による「裁き」、アメリカによる自由と正義の独善的解釈による侵略行為の基底を成すものでないだろうか。同時多発テロへの報復であり、ウサマ・ビン・ラディンを”terminate”するための、アフガン空爆もまた《terminate with extreme prejudice》ではないか。しかし、これはアメリカや国家・社会レヴェルに限定され得るものではない。個人レヴェルにおいても、この「最大限の偏見を持って終わらせ(ようとす)る」行為は日常的に為されている。そして、カーツ大佐はウィラードに言うのだ。「お前はわたしを殺す権利はある。だが裁く権利はない。」と。
□1.5.1. (Y)「カメラを見るな!カメラを見るんじゃない!・・・《本物の戦闘みたいに》、戦いながら進むんだ!」:ヴェトナム戦争を報道するTVディレクターのセリフ。本物の戦闘を前にして、《本物の戦闘みたいに》とは、まさにアイロニカルでカリカチュアル(風刺化的,滑稽化的)である。
□1.5.2. 戦争報道:映画の後半で、シェフ(フレデリック・フォレスト)が妻からの手紙を引用し、「エヴァはヴェトナムにいる俺が想像できないとよ!家でビールを飲みながらテレビを見てる俺を想像してやがる!」と、その皮肉を笑うが、ここにも戦争報道がなされる「家庭」と実際の「戦場」とのトポスの乖離性、その両者を接続するTVという「道具」の脆弱と危殆を物語っている。尚、このTVディレクターに扮しているのがコッポラ自身であるということは、この『Apocalypse Now (Redux)』もまた、接続する「道具」としての限界の意識の表れ、自嘲的パロディーであるとも言える。(関連→1.19.)
□1.6. 《サーフィン》及び《ディズニーランド》のメタファー:アメリカ的文化の象徴であるサーフィン。キルゴア(ロバート・デュバル)がヴェトコンの拠点地である村を攻撃決定する最大の動機が、この「サーフィンをするため」である、そのカリカチュール。いわゆる《正義》の本質とは、この《サーフィン》に過ぎないという暴露である。また、ランスが友人からの手紙を読んで言う「ディズニーランド。ファック!ここはディズニーランドより最高だぜ!」。この《ディズニーランド》も実に象徴的である。
□1.7. ワルキューレの騎行:昆虫に喩えられる戦闘ヘリ編隊。『ヨハネの黙示録』に出てくる「イナゴの大群」そのものと言っていい。「ワルキューレ」については(Y)に詳しい。
□1.8.1. (Y/G)朝のナパーム;“Smelled like ... victory”(その[ナパーム弾による]匂いは・・・勝利の匂い):ナパーム弾の匂いを嗅いだキルゴアのセリフ。最後の”victory”だけが、それまでのいささか誇張的な話し方とは違い、極めて《記述的》かつ《真実の声調》で述べられる。(関連→1.19.)
□1.9. (Y)プレイメイト:「騎馬隊」、「カウボーイ」、「インディアン」に扮するメタファー。
□1.10. 《虎》のメタファー:これについては諸説あるが、《虎》は一般的には「勇敢で残忍な男」「猛者」の比喩でしばしば使われる。このエピソードの後、”Never get out of the boat”(決してボートを離れるな)というシェフのセリフを、ウィラードは内的独白にて印象的に繰り返す。また、蛇足ながら、ショーペンハウアーの『パレルガとパラリポメーナ』に次のような有名な一節がある。「人間は残酷さにおいては少しばかり虎より劣る。」
□1.11.1 『Redux』で付け加えられたシークエンスとして、プレイメイトたちとの再会がある。燃料切れで立ち往生した「プレイメイトによる慰労」ヘリ機。このマネージャーとウィラードは、「燃料」と「プレイメイトとのSEX」を《交換》する。つまり、「プレイメイト=燃料→《消費財》」なのだ。
□1.11.2. チーフ(アルバート・ホール)は同性愛者:この《交換》を決めたウィラードに対して、チーフは婉曲的に非難する。そして、「ママ(mom)はいるんですか?」と尋ねる。「ママ?」とその真意を図りかねるウィラードに「いいです、私はボートにいます」と引き上げるチーフ。この”mom”とは俗語で「ホモセクシュアル集団のリーダー、売春宿のおかみ」という意味がある。
□1.12. ランス(サム・ボトムズ)が顔にペイントしはじめる(カモフラージュ):LSDの典型的症状
□1.13.1. 《仔犬》のメタファー:《仔犬》はランスの自己投影の対象と見る。また、ランスが徐々に幼児退行的態度を見せはじめる姿ともシンクロナイズする。
□1.13.2. (Y)「マシンガン乱射の後にバンドエイド」:この《仔犬》にまつわるヴェトナム民間人虐殺の後の、ウィラードの内的独白。偽善性、その欺瞞の見事な象徴性。
□1.14.1. 《橋》のメタファー:ウィラード一行が遭遇する、ド・ラン橋における米軍とヴェトコンの戦闘における《橋》のメタファーについても(Y)に詳しい。《橋》は、特に相反するもの(コインの《表》と《裏》的)を接続するメタファーとして、さまざまな文学、映画に使用される。
□1.14.2. “roach”:ド・ラン橋で、闇の中、”G.I. Fuck you!”と叫ぶヴェトコンに、グレネードランチャーを放つローチと呼ばれる兵士。このローチという響きは、”roach” すなわち”cockroach”(ゴキブリ)を連想させる。(Y)にも指摘されているが、この必要以上にサイケデリックなド・ラン橋の描写は、いわゆる『2001年宇宙の旅』の問題シーンにおけるLSDの幻覚症状的である。また、その麻薬中毒末期における典型的幻覚のひとつに、部屋をゴキブリが覆い尽くすというものがある。NY留学時代、部屋の多量のゴキブリ発生に悩まされ(幻覚症状ではないので、あしからず)、その生態に興味を持ち、ゴキブリの自己保存本能における繁殖性と残虐性についての研究文献を読んだことがあるが、このド・ラン橋における兵士たちの指揮官を失ったまま、本能的に戦闘を続ける様も、また《ゴキブリ》的ではあるまいか。
□1.15. “do the right thing”(正しいことをしなさい):クリーン(ローレンス・フィッシュバーン)の死後も回り続ける、母親が吹き込んだテープ。「正しいこと」とは一体何だろうか?まさに皮肉だ。スパイク・リー監督作品『ドゥ・ザ・ライト・シング』(”Do the Right Thing”)のタイトルの象徴性と共に再考されるべきテーマである。
□1.16.1. 『Redux』で追加された、フランス人ユベール(クリスチャン・マルカン)が経営するプランテーションのシーン。クリーンを埋葬した後、ユベールはウィラード一行に夕食を振舞う。この夕食会におけるフランス人家族の政治的会話は、ほとんどアドリブなのだそうだ。内容についての解釈は、ペペロンチーノ氏のreviewと同意見。
□1.16.2. ボードレールの詩:この夕食会の冒頭で、子どもがボードレールの詩を暗誦させられる。恐らく有名な『悪の華』であると思われるが、どの一節かは調べてみたがわからなかった。また、この子どもたちは、コッポラ監督の実子なのだそうだ。
□1.16.3. 「君たちアメリカ人は、大いなる幻想、実態のないもののために戦っているんだ!」: この会食における、ユベールの「ヴェトナム戦争の意味」についての意見。これは説明過剰。戦争の「無意味性」については、ヴェトナム戦争に限ったことではない。イングマール・ベルイマン監督作品『第七の封印』における十字軍遠征の「無意味性」を見よ。極論を言うならば、「戦争の歴史」は、「無意味な流血の歴史」である。
□1.16.4. 未亡人ロクサンヌとウィラードの情事:フランス人植民農園で、未亡人ロクサンヌは言う。「(死んだ夫に)私は言ったわ―わからない?ふたりのあなたがいるのよ。”殺す”あなたと、”愛する”あなたが―。主人はこう言ったの。『俺は自分が動物なのか神なのかわからない』。だけど、あなたはその両方なのよ・・・肝心なのは、あなたが生きているということ。あなたは生きているのよ、キャプテン。それが真実だわ・・・」このセリフは、非常に重要だ。この『Apocalypse Now (Redux)』における唯一の《救済の光》であると言ってもよいだろう。
□1.17. (Y)デニス・ホッパー扮する報道写真家≒狂言回し:カーツ大佐の存在を説明するための役どころであるが、そのセリフの無意味さが、かえって観客に誤解を招き、わかりにくくしてしまった感がある。
□1.18. ウィラードとカーツ大佐との対峙、カーツ大佐の告白:第二章で後述。
□1.19. The Time Magazine:『Redux』で追加されたものに、このカーツ大佐の「タイム誌」をウィラードに読み聞かせるシーンがある。L.B.ジョンソン大統領(ランスの名前と符合)への報告に関する記事がひとつ。次に、アメリカ人アナリストのニクソン大統領への報告に関する記事:「彼は大統領にこう報告した。『事態は改善されています。あの土地はいい感じに、いい匂いになってきています。』」 この”smelled much better over there”(いい匂いになってきている)ということばは、[1.8.1]に記したキルゴア大佐の「ナパームの匂い」とシンクロナイズしている。そして、カーツ大佐はウィラードに訊くのだ。「お前にはどんな匂いがする?兵士よ。」(”How do they smell to you, soldier?”) *日本語字幕ではこの「匂い」のニュアンスは割愛されている。
□1.20. (Y)"The Hollow Men":T.S.エリオットの有名な「うつろなる人々」を朗読するカーツ大佐。この複雑な意味の引用についての解釈は、(Y)に詳しい。
□1.21. (Y)神話的構造(ミソロジー:mythology):テーブルの上の、カーツ大佐の本、『聖書』『祭祀からロマンスへ』『金枝編』の三冊が意図的に映し出される。この意味解釈については(Y)に詳しい。
□1.22.1. カーツ大佐の殺害と生贄である水牛殺しのシンクロニシティーは、コッポラ監督自らの『ゴッドファーザーPARTII』(及び「PARTIII」)のラストと類縁性があると思われる。
□1.22.2. ウィラードのカーツ大佐の殺害は仏教用語で言えば、「無畏施」(三つの布施の一つ、菩薩が衆生を恐怖から解放すること)の境地においてでなければならなかった。しかし(!)、カーツ大佐は、死に際に言うのだ。”The horror. The horror” (「恐怖。恐怖だ。」)と。
□1.22.3. “The horror. The horror”:「地獄だ。地獄の恐怖だ。」の訳は、そのことばの響きと意味、ニュアンスから、微妙な誤解を招くと思われる。そもそも日本人の「地獄」の概念とキリスト教徒のそれとはかなり異なる。日本語字幕を担当した戸田奈津子氏は、おそらく、この『Apocalypse Now (Redux)』の下敷となった、ジョセフ・コンラッドの”Heart of Darkness”の邦訳 『闇の奥』における、中野好夫氏の翻訳にそのまま従ったものだろう。(ビデオで確認したところ、当初は「恐怖だ。恐怖だ。」と素直に訳されている。)
□1.22.4. そもそも、この『地獄の黙示録』という邦題からして曲解である。「地獄」というトポスに、この作品テーマを限定してしまうことは、戦場の換喩につながり、その普遍性を相殺してしまいかねない。また、『Redux』における、「特別完全版」などという陳腐な副題こそ、この”redux”(帰還した)の意味を殺してしまう。ゆえに、本reviewでは原題『Apocalypse Now』及び『Redux』を採用した。
□1.22.5. ただ、「これはコッポラが生んだ生き物だ」というキャッチコピーは言い得て妙である。
□1.23. もし、この『Apocalypse Now (Redux)』が、ヴェトナム人あるいはカンボディア原住民サイドからも、両論併記的に描かれるような映画であれば、それこそが「欺瞞」であろう。そこが(意図的に)描かれないことが、カーツ大佐の告白と”The horror. The horror”の迫真性を高め、ここに確立される。 *第二章にて後述
□1.24. この『Apocalypse Now (Redux)』はマルチエンディングになっている。カーツの寺院の爆破シーンは、70mm公開版と『Redux』にはない。
□1.25. ウィラード役には、最初打診したロバート・レッドフォードとジャック・ニコルソンは断り、次に、これまでのコッポラ作品の主演級ジーン・ハックマン、アル・パチーノ、ジェームス・カーンにも断られ、ようやくスティーヴ・マックイーンが了承した。ところが、結局、半年のジャングルでの撮影という条件に逃げ出され、ハーヴェイ・カイテルを代役に選ぶも、すぐに解雇。そして、マーティン・シーンに落ち着いたそうだ。もし、ジャック・ニコルソンが演じることになっていたら、ブランド扮するカーツ大佐と互角に「狂気」だったろう。
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■Intermission:休憩
quote―
□“Judge not, that ye be not judged”「汝ら、人を裁くな。汝らが裁かれないために。」(新約聖書「マタイ伝」第七章一節.拙訳)
□“The worst of madmen is a saint run mad.”「 最悪の狂人とは、狂気に走った聖者だ。」(アレグザンダー・ホープ著,”Imitations of Horace”.拙訳)
□”Mea Culpa”「自らの大いなる過失により」
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■2.『Apocalypse Now (Redux)』についての巨視的論考:
□2.1. はじめに
誤解を恐れずに言うならば、この『Apocalypse Now (Redux)』は「戦争映画」ではない。ましてや、「反戦映画」でもない。さらに言うなら、コッポラが自負する「反”嘘”映画」でもない。「戦争」という枠(あるいは垣根)から、この作品を解放しなければ、肝心な普遍的本質を見失う危険性があると思われる。
同じことが、『ハックの冒険』にも言える。児童向けに書かれた小説ではあるが、「児童文学」の枠(垣根)を越えたところに、本質がある。
□2.2. 『ハックの冒険』の本質
あのヘミングウェイをして、「アメリカ現代文学の源流」と言わせしめた『ハックの冒険』。日本でも有名な『トム・ソーヤ―の冒険』に登場する、主人公トム・ソーヤ―の友であり、浮浪児であるハックルベリー・フィンを主役に迎えた小説である。
詳しい粗筋については割愛させていただくが、この小説では、ハックを引き取り《教育》しようとするダグラス未亡人、前回の冒険で得た財産目当てに現れた父親から、ハックはミシシッピ―川に逃れるのである。旅の途中、奴隷商人に売られたことを知った黒人召使ジムに出会い、彼と共に、筏に乗って大河を下るのが大まかなストーリー展開だ。
この小説は、ピカレスク(16世紀半ば、スペインで騎士道小説の理想主義への反動として現れ、やがてヨーロッパ中に流行した小説の様式。いわゆる悪漢小説。)の形式を採用した、通過儀礼物語(Initiation Story)である。
「河」と「筏」が「自然の自由な世界」を、「陸上」が「人間社会」を、それぞれ象徴し、その対比の中に、《孤独》と《死》、《逃亡》と《追求》、《自由》と《解放》のテーマを盛り込んだ小説が、『ハックの冒険』であると言われる。
そして、その最大のテーマは、「文明の前に消滅する自然と”失われる”子どもの時代」である。少年向きの冒険小説の形態を借りながら、その本質は、アメリカ社会及び文明の《歪み》を中核に据えた小説である。南北戦争後のアメリカ社会の物質万能主義、独善的な道徳観に対するマーク・トゥエインの批判的姿勢が顕著に表れ、その根本的反省を迫るところにある。
□2.3.1. 『Apocalypse Now (Redux)』と『ハックの冒険』の類縁性
私が、両者の類縁性に着目したのは、次の五つの類似点にある。
(1) ピカレスク形式の通過儀礼物語的要素:
通過儀礼物語とは、様々な事件を経験し《人間的成長》を遂げる物語である。この《人間的成長》とは多義的であり、一般的な《成長》の解釈とは微妙にニュアンスが異なる。
また、『Apocalypse Now (Redux)』において通過儀礼を受けたのは、ウィラードでもあり、クルーの中で唯一生き残ったランスでもある。そして、ランスを原住民から《救う》のも、ハックがジムを《解放》するのと相似している。
(2) 俗語・卑語・差別語:教養のないことば:
小説『ハックの冒険』はハックの視点から書かれており、彼が《未教育》である浮浪児であるため、その文体は俗語と無教養なことばで綴られる。
そして、この『Apocalypse Now (Redux)』もまた同じく、ウィラードの内的独白をはじめ、実に俗語・卑語・差別語が途切れることなく続く。
思えば、戦場にて"実際"に戦う兵士は、ハック的な《子どもたち》なのだ。(*たとえば、ポール・ハードキャッスルのヴェトナム戦争を歌った1985年のヒット曲"19"。ヴェトナム戦争における兵士の平均年齢は19歳だったのだ!)
(3) カーツ大佐の川下体験の告白とウィラード一行の遡航:
ウィラードとの初対面で、カーツ大佐はウィラードの出身地を尋ね、少年時代オハイオ川を下ったことを告白し、その後こう訊くのだ。「おまえは本当の自由というものを考えたことがあるか?他人の意見からの自由、自分自身の意見さえからも束縛されない自由を?」。その《川下り》から《自由》への「意識の流れ」(stream of consciousness)は、まさに『ハックの冒険』的である。
そして、カーツ大佐の遡航に続く、ウィラードの遡航もまた暗示的である。
『Apocalypse Now (Redux)』における、「河と筏」、「陸上」の対比は、『ハックの冒険』のそれより複雑である。それは、マーク・トゥエインの生きた19世紀末・20世紀初頭から、ウィラードとカーツ大佐の存在する20世紀後半の通時的変化を考えれば自明であろう。
『Apocalypse Now (Redux)』においては、「河」と「筏」にすら《自由》でも《自然》でもないし、ましてや《安全》でもない。文明に侵された「陸」もまた、文明と自然の混雑物であり、その「マーブル的混濁」の中で、人間は「奇形自由」と「奇形正義」を《発明》したのである。
(*フランス人移植農園のシーンで、未亡人ロクサンヌは言う。「同じ川には二度と入れない」。ウィラードは答える「ああ、知っている」。川も濁っているのである。文明と無意味な流血によって!)
(4) 人間社会及び文明の独善性・欺瞞:
『ハックの冒険』では、旅する中で、人間の醜悪な「心の闇」に対峙し、「昔から王様とか貴族とかいうやからが、どんなにひどい悪党であったか」をジムに語る場面がある。しかし、旅の途中で出会った、自称「王様」と「公爵」の実は逃亡中の詐欺師が、捕えられ、体にタールを塗られ、連れ去られるのを目撃し、「人間というやつは、おたがいにひどく残酷になることができるのだ」とハックは感じ、良心・道徳心が極めて独善的であることを知る。
カーツ大佐もウィラードもまた、ヴェトナム戦争における「マシンガン掃射のあとのバンドエイド」を通じて、人間社会及び文明の「独善」「偽善」「欺瞞」を嫌悪している。
(*カーツ大佐は死に際にまでテープレコーダーにメッセージをこう吹き込む。「我々は若者に人の上に爆弾を投下することを教えるのだ。だが、指揮官たちは、飛行機に”fuck”と書くことを許さない。それが猥褻だという理由でだ!」)
(*この《偽善》と《欺瞞》は、日常的に介在する。たとえば「地球にやさしい」というクリシェだ。母なる大地を”fuck”しておいて、まるで「マシンガン掃射のあとのバンドエイド」のごとく、陳腐なスローガンを掲げるのだ。これを、《偽善》と《欺瞞》と呼ばずに、何と呼ぶのであろうか。現代人そして現代文明の本性とは、「父」なる祖先を”kill”し、「母」なる大地を”fuck”することに他ならないのではないか。そして私は、The Doorsの”The End”を聴く。)
(*精神を病む前のカーツ大佐は、恐らく、ジェームズ・フェニモア・クーパーの『モヒカン族の最後の者』(The Last of the Mohicans/映画化)を代表にした「革脚絆物語五部作」に登場するナッティー・バンボー的存在だったのではないだろうか。ナッティー・バンボーは、白人・文明社会を捨て荒野に住む「高貴な野蛮人」[noble savage]である。)
(5) カーツ大佐とマーク・トゥエイン:
晩年、トゥエインは、文明とそれを産出する人間への懐疑を深め、厭世的かつ虚無的になった。この在り方は、さらに極限的ではあり暴力的であるが、カーツ大佐と符合しないだろうか。
□2.3.2. “The horror. The horror.”
この解釈については、前述の(Y)か、「T.S.エリオットとジョウゼフ・コンラッド――『闇の奧』を巡つて」(URLはReference参照)に詳しい。
私の解釈も書きたかったが、あえて数行で終えることにする。
(1) 心の「闇の奥」に光を当てるのは《光》ではなく《闇》である。その《闇》の多くは「正義」という名前で呼ばれる。
(2) カーツ大佐は、ポリオ接種した子どもたちの腕を切り落としたヴェトコンの意志の力をこう評する。「完璧で天才的で完全で透明で純粋」。これもまたカーツ大佐の言う前述の《自由》である。
(3) 「道義心があり・・・同時に、原始的な殺戮本能を発揮できる男たちを持たねばならない。感情を持たず、情熱を持たず、裁くことをしない」:「原始的な殺戮本能」(primordial instincts to kill):人間の極度に純化された行動原理は「自己保存」である。精子が子宮を目指す旅、その戦い。ウィラード一行の遡航も、子宮=母なる大地への旅と相似しているかもしれない。
(4) カーツ大佐は(3)の前に言う。その原始的な殺戮本能を持ちながらもヴェトコンは、「心を持った戦士だ。家族を、子どもを持つ、愛に充たされた人間なのだ」と。これは、[1.16.4.]で記したフランス人移植農園のシーンにおける未亡人ロクサンヌのことばと共起する。
(5)そして、人間は、 T.S.エリオットの言う「うつろなる人々」、つまり「生きながら死んでいる」人間。ロクサンヌはさらに言ったではないか。「肝心なのは、あなたが生きているということ。あなたは生きているのよ、キャプテン。それが真実だわ・・・」と。
□2.4. 「失われた世代」の末裔による「現代の黙示録」
『Redux』で追加されたフランス人植民農園のシーンで、未亡人ロクサンヌは夫を「失われた兵士」(lost soldier)と称する。
これは、第一次世界大戦に多感な青年期を迎え、戦争体験によって肉体的にも精神的にも衝撃を受け、既存の理想や価値観に不信感を抱き、すなわちアメリカの伝統的なピューリタニズムに反抗し、若いエネルギーによって、旧来のモラルからの解放、新しい生き方を求めた世代を称した「失われた世代」(lost generation)に呼応する。
この「失われた世代」の代表的な作家として、ヘミングウェイ、F.スコット・フィッツジェラルド、そしてウィリアム・フォークナーがいる。
(*彼らが活躍した背景には、「ジャズ・エイジ」と呼ばれる狂乱の1920年代にあり、彼らは「聖戦」 [*この流れは、十字軍遠征以来脈絡と存続している] と位置づけられた第一次世界大戦が、実は、資本主義を繁栄させるための手段にしか過ぎなかったという、戦後社会状況に衝撃を受け、孤独感と虚無感からの、祖国アメリカへの失望がある。)
特に、『Redux』でのフランス人一家は、フォークナーの「ヨクナパトーパ郡」(Yoknapatowpha County)という架空の文学空間を舞台にした連作(『響きと怒り』『サンクチュアリ』『アブロサム!アブロサム!』など)の主人公たちを彷彿させる。
この「ヨクナパトーパ郡」連作は、ネイティヴ・アメリカンの大地に白人が侵入し、原住民たちが滅亡していく過程があり、さらに白人もまた、やがて世代が降りるにつれ次第に堕落し、新興階級に取って代わられるという歴史を背景にした、アメリカ文明の「罪と罰」の歴史叙事詩である。《罪》と《罰》。
(*フォークナーの小説形式は「意識の流れ」、異質なものの並置とモンタージュ、スリラーや映画の手法を利用しており、その点で『Apocalypse Now (Redux)』にも少なからず関連性があると思われる。)
そして、第二次世界大戦を経て、この「失われた世代」の一、二世代後の《子供たち》がヴェトナム戦争に関わった人間なのである。彼らを称するのに「自己を喪失した所有者」が適当であろう。
(*劇作家ユージン・オニールの未完の連作「自己を喪失した所有者の物語」(”A Tale of Possessors, Self-Dispossessed”)から借用)
第二次世界大戦と原爆は、アメリカ社会と文化にも大きな変化をもたらした。
(a)大衆消費社会と物質的豊かさへの追求; (b) 物質主義と体制順応指向; (c) 共産主義に対するアメリカ国民の団結; (d)ソ連への対抗意識による資本主義・民主主義というイデオロギーの発達;(e) 核の時代の先導者という意識; (f) 国際的役割への責任感による、世界における混乱・闘争への過剰な関与 ざっと流れを追えば、こうなるだろう。
さらに、核が生んだのは、通常兵器と完全に異質な、「不確実な日常性」という意識である。
「原爆」までの戦争には、生存への戦い、生と死のドラマがあった。それゆえに、戦争をテーマにした映画や文学には、「死」を扱いながらもニヒリズムや幻滅の中で生き続ける《余裕》が存在していた。
しかし、核は、「日常」を瞬時に”exterminate”(根絶)する。よって、そういう《余裕》が介在する《余裕》などあるはずもなく、「芸術」そのものは勿論、「芸術家」も、それを「享受する者」の存在自体が不確実であり、生存の保証はないのである。
よって、未来を開示する試み、いわゆる「黙示録」は、自らの狂気を露呈するようなものとなった。そこで、ここに『Apocalypse Now (Redux)』の「黙示録」としてのテクスト性が浮かび上がるのである。
(*「ヨハネの黙示録」は、究極的な悪の破滅と神の国の出現による善の勝利を説いている。「現代の黙示録」には、《悪》と《善》の存在すら不確実なのである。)
(*「戦争」というテーマは、この第二次世界大戦の肉体的・精神的衝撃の深さゆえ、今日まで脈絡と存続している。たとえば、ソール・ベローの『宙ぶらりんの男』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』である。さらに、ポストモダニズム文学としての戦争を扱った小説として、ジョセフ・ヘラーの『キャッチ22』(映画化)、カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(映画化)、トマス・ピンチョンの『重力の虹』がある。これら実験的文体も、また、『Apocalypse Now (Redux)』と類縁性があると思われる。)
□2.5. 《幻想》と《妄想》と《真実》と
「悪ってのは機械仕掛けのようなもんだ。その一端は、人間って奴は、ちゃんと苦しむことさえできないところにある。苦しみを楽しんでしまうんだ。罰を受けるという考えでさえ堕落だ。そういう苦しみってのは全部慰みものなんだから、悔悛の時などあるわけない。人間が求めるのは、苦しみじゃなくて、真実さ。そして、真実ってのは、今は想像もできないほどの苦しみなんだろうな。」(アイリス・マードック,”The Italian Girl”:拙訳)
そういう意味で、この映画『Apocalypse Now (Redux)』は《真実》と《苦しみ》の地平で《呼吸》する、《幻想》あるいは《妄想》なのである。
□2.6. 終わりに
言うなれば、このreviewもまた、《幻想》あるいは《妄想》に過ぎない。
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『Redux』[Cinema Route 170/2.14.02‖with guko/ワーナー・マイカル・シネマズ茨木/2.18.02‖Cinema Route 170/2.28.02]■『Apocalypse Now』[video/date unknown‖video, reappraisal/2.28.02]■[review:3.02.02up]
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■Reference:参考
□書籍及び文献(review中登場する小説は省略):
●『地獄の黙示録 特別完全版』パンフレット
●蓮見重彦.『饗宴II』「『地獄の黙示録』から―大岡昇平との対談」 日本文芸社
●佐野守男.『ハックとトムの神話的世界 『ハックルベリィ・フィンの冒険』を読む』 彩流社
□ウェブサイト(再掲を含む):
●闇の奥―映画「地獄の黙示録」Tribute Page:[http://www5.big.or.jp/~hellcat/index_app_now.htm](日本語/ただし、現在のところ『Apocalypse Now』についてのみ記載/また、このサイトにあるシナリオテクストの日本語訳は戸田奈津子氏のそれよりも卓越している)
●Greatest Films:Apocalypse Now / Apocalypse Now Redux:[http://www.filmsite.org/apoc.html](英語)
●Joseph Conrad’s “Heart of Darkness” Text(『闇の奥』の全テクスト) [http://www.acsu.buffalo.edu/~csicseri/](英語)
●Mark Twain’s “Adventures of Huckleberry Finn” Text(『ハックルベリー・フィンの冒険』の全テクスト) [http://www.americanliterature.com/HF/HF.HTML](英語)
●「T.S.エリオットとジョウゼフ・コンラッド――『闇の奧』を巡つて」(映画中でも引用されるT.S.エリオットの『うつろなる人々』とコンラッドの『闇の奥』における対照研究論文)[http://member.nifty.ne.jp/okadash/conrad.html](日本語・文語体)
●The Doors Official Site:[http://www.thedoors.com/](英語)
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最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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